彼と私の奇妙な半同棲生活はこうして始まった。
尾形さんの部屋だと言って導かれたそこは、彼が所有する部屋ではあったが、イコール彼が暮らしているというわけではないらしい。尾形さんはそこで寝泊まりすることはなかった。いつもフラッと顔を出したかと思ったら、ただソファに座っている。私がテレビを見ていたら彼も隣に座って画面を見ているし、私がご飯を食べていたら、彼は欠伸をしながらこちらの様子をちらちらと伺ってくる。私が尾形さんのためにお茶やご飯を用意しようとすれば、決まって「何もしなくていい」と言った。彼が私に何かを求めることもなかった。
そんな調子で1ヶ月余りが過ぎれば、彼が来るたびにどきどきしているのが馬鹿らしくなった。だって何もしないし、されないのだから。私は本当にただそこにいるだけだった。彼が「ここにいてもらう」と言った言葉の通り。時間が経てば、この部屋に突然連れてこられたように新しい要求があるかと身構えていたが、それもない。単に引っ越しをしたのと変わらなかった。そう楽観視できるようなことじゃなかったはずなのに、状況は不透明なまま、時間だけが過ぎた。
「尾形さん」
夜、22時半。ドラマの後に始まったニュースは半分を終え、アナウンサーは暗い顔を一転させて「次はスポーツです」と笑顔になる。CMに入ったタイミングで、一ヶ月ぶりに彼の名前を呼べば、尾形さんがのっそりと振り返った。まるで生気のない目が私の方へ向く。彼の表情も、あのアナウンサーたちのようにコロコロ変わってくれれば、こうも悩む必要はなかっただろう。
「恋人の代わりって、具体的に何をすればいいんですか」
彼が、お金の代わりに出した条件はそれたった一つだった。私には、彼がくれた返済証明書に見合うものを提供する義務がある。
しかし、私は彼の‘死んだ恋人’を知らないし、彼も教えてくれない。何を望まれているか分からないから、何かしようがない。だから、勇気を出して単刀直入に聞いたのに。彼は感情のない顔のまま「別に」と言うだけだった。
「アンタが好きなようにすればいい」
「そういう訳にはいかないです。これは取引だったはずですから」
好きにしろと言ったって、彼が私の借金を肩代わりしたという事実は変わらない。借金を返すにしろ、それは今すぐにできることではない。それなら、せめて彼の望みは叶えたかった。800万円と引き換えにした、彼の恋人への思いに報いたい。
「……ただ、ここにいればそれでいい」
考えるのが面倒で、そう言っているのか。彼の言葉を聞いてすぐにそう思ったけれど、視線を交わせばそれは間違いだと気付く。尾形さんは私の目を見ていて、視線がぶつかると、視線をゆっくり私の頭や手に移した。私の存在を確かめるように、彼は何も言わず、ただ私を見て、「ここにいれば」ともう一度言った。彼の声や表情に、特筆すべき感情はないはずなのに、理由もなく悲しいと思う。
彼が求めているのは、私という彼女に瓜二つの存在だけだ。恋人の代わりに何かしたいというのは、私のエゴ。彼がこの家に私を置き、何をするわけでもなくただ私を眺めるのは、外側だけを見ていたいから。話して触れて、こいつは別人だと気付くのを恐れているんじゃないのか。自分で考えて、また勝手に悲しくなる。
「でも、800万円払ったじゃないですか。私に、死んだ恋人のふりをしてくれって。あのお金は、その対価だったはずです」
尾形さんは、憂鬱そうに見えた。これ以上その話はするな。そう視線と態度が物語っている。それでも、一度口に出してしまった言葉は喉の奥に引っ込んではくれないし、疑問を飲み込んだまま曖昧な生活を続けるのも、いつかは限界が来る。
「なんでそう真面目なんだ」
「それは、……聞かれても分かりません。でも私はあなたに借金を払ってもらった負い目があるから。だから、」
「何かして心を軽くしたい、……ってか? 随分勝手だな」
彼の言葉に、反論する気はなかった。その通りだったから。私は勝手だ。今、勝手なことを言っている。自分勝手な言動で、尾形さんの言いたくないところ、誰も入れたくない場所に土足で入り込もうとしているのだ。
「アンタが知る必要はない」
はっきりと、「もう何も聞くな」と彼が言う明確な拒絶だった。結局何も得られないまま、私はそれ以上聞くのを諦めた。
尾形さんと私の間にある薄くて頑丈なガラスのような壁が、確かにそこに存在すると知る。ひどく冷たい。閉じ込められているのは私のはずなのに、その壁を前にすると、どうもそうとは思えない。本当は尾形さんこそが、その中に閉じ込められているんじゃないか。冷たくて暗い孤独な場所に。―恋人を失い、一人きりで。
「アンタだって襲われたかねぇだろ」
「それは、そうですけど」
「俺が善人で、宇佐美が悪人だなんて間違っても思うな」
テレビ画面の隅、数字が変わった。23が消え、0時に。当然のように明日が来る。新しい一日は音もなく始まる。
「どういう意味ですか、それ」
「そのまんまだよ」
尾形さんは立ち上がり、ダイニングチェアの背にかけたジャケットを手にとる。彼が腕時計に目を落としたら、終わりの時間だ。
彼は私を‘勝手だ’と非難するけれど、尾形さんだって大概だ。「また来る」といつもと同じ言葉を置いて、彼が閉めた扉の音が静かな部屋に響く。一つくらいは教えてくれてもいいじゃないか。死んだ恋人はどんな人だったのか、どれだけ愛していたのか。どうしてその人は、尾形さんを置いて遠くへ行ってしまったのか――。
「一番近くが無理だったときは」01