『呪われろ』

 今際の際に実父が遺した言葉が、尾形の鼓膜の裏に張り付いている。我ながら残酷だと、血塗れた畳を見下ろしながら、己を自嘲した。埋まって、血溜まりの中で腹を裂かれた父親。いや、この男は、父親と呼ぶのにも値しない。死んで当然とまでは言わない。だが俺に殺す権利はあったと、尾形は思う。

「ごめんください」

 その時、玄関の方から女の声が聞こえた。まだ若い女の声。ここへ来ることには慣れているのか、すたすたと足音がして、人影は、庭に現れた。袴を身につけ、黒髪を結ったその少女を見て、尾形は直ぐに鶴見中尉の姪、もとい義理の娘であると気が付いた。まずいところを見られたという焦燥はない。尾形は、気持ちは凪いでいた。彼女と視線を合わせる。彼女は、一縷の動揺も見せやしなかった。

「この男に何か用だったか」

刀を腹に刺した死体と、返り血を浴びた軍服の男。

 尾形が花沢中将の妾腹であったことは、第七師団では公然の秘密として蔓延していたので、当然、彼女の耳にも入っているはずだ。

「叔父様から届けものを頼まれていました」

名前は風呂敷に包まれた重箱らしきものを抱えていた。こんな場面に遭遇し、彼女の態度は、不自然な程に落ち着いていた。尾形の心を掠める違和感。屍に向けられた視線は、ゾッとするほどに冷たい。

「その人は、貴方様の御父上でしたね」

ぽつり、名前が、やっぱり憎んでいたんですねと、誰に向けて言うでもなく呟いた。それは妾腹として疎まれていたことを言っているのか。母親共々捨てられた尾形には、父親に対する愛も憎しみもなかった。ただ生まれたときから胸に巣食うこの闇が、父親を殺すことで晴れるかもしれないと思い、実行し、叶わなかっただけのことである。

「…この男とは親交が」
「ええ、少しだけ」
「そいつは悪いもん見せちまった」

尾形は、庭先の彼女に歩み寄る。少女は怯える素振り一つ見せずに、じっと尾形を見つめ返した。

「いえ、私もあの人のことは嫌いでしたから」

彼女の言う、『あの人』が花沢のことなのか、それとも別の人物のことなのか、この時の尾形には判断しかねた。しかし、権力と金にしがみつき、軍という剣を振りかざし、身分のない者を虫けらの如く扱う花沢のことを、名前が憎く思っていたのは事実。

「早く行ってください、鶴見が貴方を探しています」

さあ早く、と名前は尾形を急かした。

「私がここへ来た時、花沢中将は既に亡くなられていました。部屋には誰もいなかった、私が最初に見つけたのです」

淡々と言葉を紡ぐその唇は、まるで呪われた人形のように、血色が悪かった。尾形は己と同じ闇を、彼女の瞳の奥に認め、ほくそ笑む。尾形が庭におりて、その場を立ち去ろうとしたとき、「尾形上等兵殿」名前を呼ばれ、振り返る。

「貴方様には、またお会いできる気がします」

尾形はそれを笑った。そして、街の雑踏へと消えてゆく。雨を降らせようかと、空を覆い始める厚い雲は、幾年後かの悲劇を暗示していた。

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