「お前はここにいろ」

 名前が山本理髪店に戻って早々、店の前で繰り広げられているちょっとした争いに目を丸くした。真ん中で、尾形がボコボコにした警察官らしき人をひっ掴み、何やら話をしている。自分をわざわざ遠くの商店まで買出しに行かせたのはこの為かと一人納得した。その買い物は今必要なのかと、聞いた名前は阿呆ではなかったという訳だ。

「あとで迎えに来る。 俺が死んだら一人で逃げろ」

はあと、間抜けな声を出す名前に一瞥もくれず、尾形は、何やら馬のような顔の男の人に連れられて行ってしまった。全く、猫は勝手で困る。名前が、困った困ったと顔に書いたような店長さんに、少し隠れさせてくれと頼むと、また困ったという顔をされた。そうは言っても、こちらも困っているので、引く気は無い。

「……上に部屋がある、」

押して押した末に、漸くその言葉を引き出し、名前は大きな茶色の鞄に、買い出しで購入した包帯と軟膏を詰めて、上の部屋へと上がる。部屋は絶妙に汚かったが、文句は言えまい。じきに終わる。

「ちょっと困りますよ」

 呆けていると、聞こえてきた声に、あの人はまた困っているのかと名前は同情した。今度は何なんだと思った刹那、がらりと障子が開けられる。そこには腹の大きな女性と、挙動の怪しい男、その後ろには、随分と身なりのいい老人が立っている。

「これは失礼、人がいるとは思わなかった」
「あ、いえ。構いません」

さっと女の人に入るよう促すと、老人はスタスタと階下へ降りていく。挙動不審の男も、泣きそうな顔で『じゃあ千代ちゃん後でね』と伝えると、足早に去ってしまった。

「山本さんの、お知り合いですか?」

鈴の鳴るような声に名前は驚く。女性のひどく緩慢な動きから、腹に子がいるのかと漸く思い至った。

「いえ…ここで人を待たせて頂いているだけで」

返事をすると、千代子は嬉しそうに目を輝かせている。私と同じ、と彼女が微笑む。躊躇いつつも、名前は頷いた。ふたり、待ちぼうけである。

「待っているのは、さっきの方ですか」
「ええ、そう。…貴女は?」
「私は、旅の仲間、というか」

一緒に逃げてる脱走兵だとは、とても言えず、名前は言葉を濁した。千代子は、それを照れ隠しと勘違いしたのか、我が事のように頬を染めて、素敵と呟く。今の流れのどこが素敵なのかと、名前が答えを見つける前に、「きっと素敵な方なんでしょうね」なんて、にこやかに言われてしまったら、今更、否定も出来ない。頭の中で尾形を描くと、不思議と、間違いでもない気がしてくる。肯定するのも、それはそれで違うのだが。

「ええ、…とても」

名前が笑うと、千代子も嬉しそうに笑った。彼女のように生きてみたかったと、名前は思って、すぐに頭を払った。たらればの話は、意味がない。