その人は俺の憧れだった。いや、憧れと言うと気持ち悪い。だが他に俺のあの人への気持ちを表す方法がない。“ゼロ”と呼ばれる公安警察のトップシークレットの中心にいるあの人は、俺から見てもイケメンだと素直に思えるような美男子で、おおよそアラサーには見えない。老けて見られることが常の己とはこの格差である。
恵まれた外見に加え、知性・行動力・器量、あらゆる面であの人には死角がなかった。だから尚更あの人と共に働けることを嬉しく思ったし、あの人の役に立てることは光栄なことだった。
――だが、残念ながら俺は人間である。感情を持ち、疲れを感じ、ミスをする生き物なのである。今日で2徹目。今にも意識がぶっ飛びそうになっている俺は正常である。だから3徹目の今日、普段通りに(隈はある)働く降谷さんは人間ではない。
こうも一緒にいると、呼吸のタイミングが同じなのでないかと思うほどシンクロを感じることがある。降谷さんが俺の名前を呼ぶ直前の息を吸い込む音が聞こえるようにすら思う、ああ今、俺の名前が呼ばれる、と。――
「風見」
「はい」
とうとうここまで来たかと思う。俺は指示された書類を手に取り、一度強く頬を叩いた。悪夢よ覚めろ。
「それが終わったら帰っていいぞ、明日からは午後から出庁しろ」
「しかし降谷さんは、」
「俺もこれが終わったら上がるよ」
あともう一息頑張ってくれ。降谷さんに渡された缶コーヒーを見て、いつの間にかブラックコーヒーが飲めるようになった自分に気が付く。過ぎた時間、積み重ねた経験、いつまでたっても追いつけない人。
【今夜飲み行きません?】
スマホに表示されたメッセージに、カバがグッドしているスタンプを返す。そうだ、こんな悔しい夜は酒を飲むのが良い。
名字は警察庁の受付を担当する職員の一人で、俺の大学時代の後輩に当たる。この歳になって何をと思うかもしれないが、仕事柄友達が出来ない。しかも話していけないことだらけの職業のおかげで、学生時代の友人とはほとんど疎遠になった。飲みに行くのは職場の同僚くらいなもので、それでも時間は合わないことの方が多い。
そんな俺にとって名字は何かと貴重な存在だった。きっちり9時17時の仕事は俺に合わせやすく、口数が少なく柔和な性格は話しやすい。最初こそ『お久しぶりです』と突然言われ困惑したが、いまではあの時話しかけてくれたことを感謝している。
「待ったか」
「まあ1時間半ほど」
「……すまない」
「嘘です、2時間です」
それも嘘ですと笑って名字は歩き出したが、時計はもう20時を回っている。冷静に考えて3時間近くは待たせた。もう一度すまないといえば、彼女は首を横に振った。ステーキが食べたいと言うのであればお望み通りに。待たせたツケ、一緒に酒を飲んでくれる彼女への礼がわりだと思えば諭吉の一つや二つ痛くない。どうせ他に使うあてもない。
「分かりますよ」
降谷さんってああ見えて我儘ですもんね。ある意味、利己主義だし。己=国家というとんでもない考えだけど。あ、馬鹿にはしてませんよ?
「――いや、確かにあの人はとんでもない人だ」
「ねえ」
名字は笑いながらエールビールを煽っていた。肉はうまいらしい。仕事以外の話をしようという気はいつもあるのに、どうしても結局降谷さんの話になってしまう。これは何の呪いだろうかと名字に訊いたら、「恋じゃないですか」とふざけた答えをもらった。お酒が入ると途端に先輩を馬鹿にしだすのは彼女の悪い癖だ。
「今日も俺には書類10枚で自分はその倍だぞ、ありえない」
元々は部下に仕事を回すのすらしなかった人だ、10枚でも渡されたことは大きな進歩である。でも均等に配分する、いや俺が部下で俺は2徹目なのだから、俺の方が多くて当たり前だ。それなのに、全くあの人に本当に困った。いつか自分の与り知らないところで死ぬんではなかろうかという恐怖が、このところ絶えない。
「頼られたい気持ちも分かりますよ」
それが大事な人なら特に。名字が一瞬悲しそうな顔をしてそれでも楽しそうに笑って、言い様のない心地よさを感じて、俺は彼女の方に腕を伸ばしかけて――正気に戻った。
「風見さん?」
「あ、いや……何でもない」
「やっぱりお疲れですね」
彼女は最後の一切れを口に入れてごちそうさまでしたと言った。帰りますかという問いに、もう少しと叫ぶ心の未練を断ち切って、そうだなと答える。
「今日はついに降谷さんが俺を呼ぶタイミングが分かるようになった」
我ながら気持ち悪い。名字は「確かに」と言っている。そこまで酔ってはなさそうだ。
「でも自分が強く考える人の気持ちって分かるようになりますよね」
「そんな能力はいらん」
「私も風見さんの考えてること分かりますもん」
――ちょっと妬けました。それじゃあまた。ゆっくり休んでください。
小さくなった背中が駅の人混みに消えていく。あんまり眠れそうにない。
「風見」
「はい」
「結婚することにした」
上司の突拍子もない発言には慣れたと思っていた自分が甘かった。それはおめでとうとございます、と口にするのに実に1分はかかった。
「お前の力を貸してくれ」
関与した暴力団の洗い出し、CIAへの捜査協力要請、裏取り、聴取、あらゆる仕事が回って来た。珍しいと思う反面、やはり嬉しさが勝る。最初は完全プライベートなお願いかと思いきや、やっぱり捜査だった。しかも近年で一番大きな覚せい剤案件である。大東組といえば西東京を中心に活動する裏社会ではそこそこ名のある団体で、そういえばその末端のやつがでかい事件をやらかして捕まったと聞いた。それが回り回って国際案件に発展している。
「降谷さん、これ」
「……ありがとう」
捜査を始めて1年と少し、決定的な証拠が出た。渡した資料に目を通した降谷さんは少し疲れた顔に笑みを浮かべて、助かったと、そう一言口にした。
「じゃあ行ってくる」
「どちらへ?」
登庁するときのスーツとはまた違った上等そうなスーツに身を包み、やや硬い顔で降谷さんは右手をあげた。
「ヤクザの娘を貰いに、な」
結局何をしに行ったのかという疑問は、翌日解決された。降谷さんから二度目の(今度は本当の)結婚報告を受け、相手は大東組の一人娘で、大東組は事実上解散という一晩で起こったとは到底思えない話を聞いた。もう何も考えない。ひたすら酒を飲むことにする。
「……大変ですね」
名字が笑う。大変なんだ俺は、嫌ではないけれど。Mでもないけれど。ああ、名字が笑っている。楽しそうに。でも少し悲しそうに。
「なあ」
「何ですか」
「俺もわかったよ」
「何がですか」
「名字の考えていること」
今から答え合わせをする。酒を飲みたいと思ったときに、いや何でもない瞬間も唐突にお前に会いたくなるこの気持ちとまとめて。だから間違っていてもまた優しく笑ってくれ。