私たちが初めて出会った時、彼は『安室透』と名乗った。それは歪んだピースのように上手く私の心の中に嵌らなかった。けれどその違和は無視することに決めた、結局真っ白の絵ならば間違ったとしても、ジグソーパズルは完成してしまうのだ。私は彼のことを何一つ知らないからだと納得することにした。
私と安室さんはそれから色々あって、恋人という関係に収まった。でもそれは非常に淡白なもので、会うのは月に1回か2回、安室さんの仕事が忙しい時には2ヶ月会えなかったこともある。
彼の仕事がただの喫茶店の店員だとはハナから思っていなかった。でも流石に彼の仕事が潜入捜査もこなすような警察官だとは夢にも思わないでしょう。もしも夢に見ることさえあったなら、私は彼への想いに急ブレーキを踏んで、今頃は米花町から住民票を移していたことは確実である。
そんなことはカケラも考えず、安易にこのような関係になってしまったことを後悔しつつ、私は意を決して口を開いた。『私は貴方とはこれ以上付き合えない』という言葉の後に、あの日まで隠し通してきたことを滔々と語れば彼は少し目を丸くして、それでも心底愉快だという顔で盛大に笑った。
『それでも僕は君を諦められない──って言ったら?』
君はどうする、――安室さんの綺麗な顔が目の前に迫って来て実に心臓に悪いと思った。美人は3日で飽きると言うが、美男子はどうなのだろうか。飽きは来なくていいからせめて慣れればいいのに。
『…好きです』
本当は私も貴方を諦めたくはない。それを言うには自分が力不足な気がして無理だった。だから思ったことをそのまま口にすれば、安室さんは満足気な笑みを浮かべて私を抱きしめてくれた。
『僕にはたくさんの名前があります、まだどれが本当の名前か教えることはできません』
それでもいいかと彼は訊く。彼の本当の名前が別のものだとしても『安室透』であることに変わりはない。名前は所詮ラベルでしかない。それは彼を判断する取っかかりに過ぎず、ラベルからジャムの味は分からない。構うもんかと答えた。きっと、彼の本当の名前は私の中にピッタリ嵌って美しい絵を完成させるのだろうと想像出来た。
ここで、私の秘密を打ち明けることにする。
私の父は、大東組の3代目組長である。つまり、私はヤクザの娘である。そして母は文字通り極道の妻というやつだ。大東組というのは西東京を中心に東京の裏社会を牛耳るそれなりに大きな団体で、父は中卒で裏の世界に入り一番下っ端から実力だけでのし上がった正真正銘のヤクザである。誰もがイメージするように、左手の小指の先の方は吹っ飛んでいるし、額には嫌でも目に入る大きな切り傷がある。ちなみに、家の茶の間には堂々と日本刀が飾ってあったりもする。父はそれを佐々木小次郎の剣だと語っていたけれど、多分嘘。まあどうでも良いか。
そんな訳で、幼い頃から堅気ではない人に囲まれて育った私だれど、父はヤクザらしく曲がったことが嫌いで、仁義を重んじる人だったので自分は真っ当な人間に育ったと自覚している。母譲りの頑固さは玉に瑕だが、それはご愛嬌。『極道の妻となるならば自分の中に芯を持て』というのは5歳の私に母が贈った金言である。生涯忘れまい。
月に1度の家族での会食は我が家の鉄の掟である。三徹を平気で強いられる誰かさんと違って、私の仕事場はホワイトだし多忙でもないので全く支障はないから構わない。しかし、食事をしながら繰り広げられる父の仕事の話は正直に言うと子供の頃から苦手だ。どこの誰が死んだとか捕まったとか、この前は新興勢力とドンパチやったとか狩場荒らしを締めに乗り込んだとか、おおよそ善良な一般市民に聞かせる話題ではない。
そのお陰で、高校生の頃当時の彼氏と見に行ったR18映画は評判以上のグロ映画で、気分を悪くした彼氏の横で平然としていた私は“多分うまくやっていけない”と訳の分からない理由でフラれたことがある。解せない。血腥い環境で生まれ育った弊害は意外とあるもんだ。
「そう言えばこの前、平野さんがお捕まりになったとか」
「ああ、あいつら危ねえ薬に手出してたからサツに目付けられてたんだとよ」
「それはお気の毒」
「サツもてめえの賄賂は見て見ぬ振りで、よその汚ねえ金にはすぐ食いつきやがる」
なあ、と父が私の方を向く。目の前のミディアムレアのステーキを口に放り込みながら、そうだねと答えた私は咄嗟に浮かんだ彼の顔を見て見ぬ振りをした。
「……で、お父様はお元気ですか」
私のエビ天が箸から落ちた。この人はこれを私に聞く時、一体どんな気持ちなのか一回聞いてみたい。
「おかげさまで、この前も傘下の部下が警察に捕まったとか悔しそうに話してました」
「ほお、なんでまた」
「覚せい剤だそうですよ」
それはいけませんねと安室さんはニコニコしながら、カボチャの天ぷらを口に運んでいる。全く同感である。
「ちなみに名前を伺っても?」
「平野さんと聞きましたけど。……珍しく警察モードですね、」
私は父のことを特別嫌いではないし、思い返せば、周りの普通の父親同様、時に優しく時に厳しく育ててもらった恩もある。父の仕事を批判したところで、私がその商売で得た金で生きてきたことは揺るがない事実なのだ。でもだからと言って、裏稼業なるものを全肯定する気はないし、もしもいつか安室さんをはじめとする警察に捕まってしまうならばそれは仕方ないことだと割り切っている。父も覚悟の上だろう。
「随分他人行儀なんですね」
「私は安室さんに捕まりたくないんです」
「最もだ」
深夜2時、米花駅前の天丼やでの30分は実に1ヶ月ぶりのデートだった。