「こちらは鯉登中佐のご子息で、鯉登音之進君だ」
あの人が私の手を引いて、彼の元へ連れて行った。士官学校に通う青年で、褐色の肌に精悍な顔つきは女の人に人気がありそうだと直感的に思った。交わした握手は力強く少しだけ痛かった。
「鶴見名前です」
「鯉登音之進だ」
目が合ったので微笑みかければ、意外にも頬を真っ赤に染めていた。それを嬉しそうに見守るあの人を見て、私はこの人と結婚するのだと分かった。
「えっ…知らなかったんです?」
名前が目を丸くするのと同じく、鯉登も目を丸くしていた。おまけに口も半開きだった。いつそのような話を……!と慌てている鯉登を他所に、「近いうちに決まると思います」と言う名前は、至って平然としている。名前は、鯉登とこのように食事の席を定期的に設けられるのは、後の婚姻の為だろうと察していたので、いつその時が来ても恥ずかしくないよう振る舞いには気をつけていた。
着てくる服は全てあの人の趣味で、洋服にしろ和服にしろ、見たくもない金額のものだった。然しこれも鯉登家に嫁ぐ者ならば致し方ないと諦めている。看護の学校に行く約束はしていたので、名前はそれさえ果たされればあとはどうなっても良かった。生涯あの人に飼い殺しされようと、駒として嫁に出されようと、失ったものは戻らないと知っていた。それが後者だっただけのこと。それをポツリと漏らしてしまったのがいけなかったのか、ふたりの婚姻にまるで気づいていなかった鯉登はこうして狼狽えているのである。
「名前は、了承しているのか」
名前がお皿から鯉登に視線を移すと、とても真面目な顔をしていた。切れ長の瞳が困惑と怒りに燃えているように見える。
「了承も何も、拒否権なんて私は持っておりません」
あの人に与えられた人生をあの人が望むように歩む。それは母と父の代わりに己が背負った十字架だと名前は思っていた。
「おいがゆちょるんな、そげんこっじゃなか!」
突然のお国言葉に名前は少なからず驚いた。何を言っているのか分からない。
「わいはおいとといえしよごたっとか?」
ポカンとした名前を前に、漸く正気に戻ったらしい鯉登はひとつ咳払いをした。
「名前はおいと結婚したいか」
鯉登は真面目だった。義理人情に厚く、真っ直ぐでいつも迷いがない。少々行きすぎなところが玉に瑕だとあの人は語ったが、お気に入りなんだろうということはすぐに分かった。あの人に関わる人は皆嫌いだった名前も、鯉登はそれほど嫌いではない。勿論かと言って好きでもない。言葉を返さない名前の様子から全て分かったといった様子の鯉登は、自分の父と鶴見には自分が話をすると言った。何を、とは聞くまでもない。名前はその必要は無いと言った。しかしそれを遮るように、鯉登は「おいが許せんのだ」と言う。
「必ず名前においが好きだと言わせちゃる」
鯉登は箸をとってどんどん食事を進めた。名前は驚きに負けて言葉が出ない。
「そしたやおいからゆ」
鯉登の顔は赤く染っている。名前は下品を承知で声を上げて笑った。やっぱり嫌いじゃないと思うと、少しだけ幸せだった。
尾形さんと合流を予定していた場所に向かう途中、崖が崩れて道が塞がり遠回りを余儀なくされたことは、別に予想外のことではなかった。でもその道中、よりによって彼に見つかったのは誤算だったとしか言えない。迂闊だった。第七師団がこの辺りには多いから気をつけろとあれほど言われていたのに、こうなってはまた尾形さんに薄笑いで嫌味を言われること確実である。
ため息をつきながら、道無き茂みの中を進む。あと少し行った先を曲がれば、というところだった。
「名前」
いつも少し角張っていていた声は、焦燥と驚愕の感を含んでいた。
「待て」
目の前に現れた男は私を見るなり腰に下がった剣に手を掛けた。そして眉間に皺を寄せ、正面へと回りこむ。久しぶりに見た彼は、昔と変わらず精悍な顔つきだった。
鯉登音之進──第七師団に所属する若き将校であり、あの人のお気に入り筆頭である彼は、私とは旧い馴染みである。あの食事の後、彼は本当に私と彼の間にほぼ決まりかかっていた婚約を破棄し、私は己の力で手に入れると鯉登大佐に宣言したと聞いた。その気概を当然のごとくあの人も褒め称え、見事破談にしたのである。以後こいっちゃん等とふざけた呼び名も、彼は構わないと許してくれた。それがこんな形での再会になるとは、彼が最も忌避していた事だっただろう。私としても久しぶりの再会を祝いたいところなのだけれど、叶わないのが実に残念だ。
「どこへ行くつもりだ」
未だ信じたくないという顔をしている。優しい人だった。私が裏切るのを躊躇うほどに。
「……答えろ」
こいっちゃんが一歩近付く。私は下がらなかった。
「行く宛は特にないよ」
どこへ行っても地獄。逃げる先もない。でも、留まることはない。もう賽は投げられた。
「ごめんね」
私の人生において大事だと思える人はそう多くない。だからせめて、その人たちを失望させるような真似はしたくなかったのだけれど、今となってはその信条は何の意味も持たない。私は一歩一歩踏み出して、彼の隣を通り過ぎて行こうとした。(彼はきっと、私を殺せはしないから)その刹那掴まれた右手は、軋むほどに強い力で少し驚く。彼は絞り出すような小さい声で「行くな」と言った。「行かんでくれ」と言った。それでも揺れない私の心は、とっくの昔に何処かに捨てて来たのだろう。
「ごめんなさい」
それ以外、伝えるべき言葉は見当たらなかった。こいっちゃんの腕の力が弱まる。歩き出してすれ違うふたりの道は、もう二度と交わらない。