私と先輩はあの後、来た時と同じようにまるでデートにでも行ってきた男女であるかのような風貌で来た道を辿り、先輩の家へと帰った。家族には一週間ほど友人の家に泊まると嘘をついて出てきた。憂う心配もない。私は先輩の部屋でシャワーを浴び、そして泥のように眠った。これまで一度も経験してきたことのない気怠さと眠気に襲われ、私は立ち上がることすらままならず、そのまま3日ほどをほとんどベッドの上で過ごした。先輩も私に体を添わせて眠ったり、かと思えば起き上がって何かしていた様子ではあったがあまり記憶は定かでない。
次にはっきりと意識が覚醒したのは、あの事件が起きて4日目の朝だった。先輩の父親の死は既にナマモノのニュースとして消費され、報道番組のどこにも名前は上がらなかった。私は自分のスマートフォンに手を伸ばし、先輩の父親の名前を検索する。驚くべきことは二つあった。まず一つ目は、先輩の父親が警察庁の幹部であったこと。二つ目は先輩の父親の死は、汚職事件に責任を取る形で行われた自殺として処理されていたことだ。自分が当事者でありながら、それがなかったことにされている。安堵とも罪悪感とも言えない奇妙な感覚に気を取られていると、横からすっと腕が伸びてきて私のスマートフォンが奪われた。言うまでもなく先輩であった。先輩はずり落ちていた自分の髪をかき上げながら、私のスマートフォンが示すそのニュースの文字羅列を読んでいるようだった。感情はないが、無表情とも言い切れないその先輩の哀愁に満ちた表情が、私は好きだった。
「先輩はこうなることが分かっていたんですか」
抱えていた本を落とすようにして、疑問が零れ落ちてきた。
先輩は特に迷うわけでも、悪びれるわけでもなく、「ああ」とその疑問を肯定する。私には先のことなど何一つとして分からなかったが、先輩には全てお見通しであったらしい。あの日、先輩の父親を殺しにホテルを出た日。流れ去ってゆく車窓の流れのようなニュースの中に、警察幹部の汚職事件があった。確かに覚えがある。名前や顔にまでは気がつかなかったが、あれが私たちの計画の、――否、先輩の企てた計画の布石であったのだ。
「世間は単純だ。人一人の責任じゃないと分かっていても、誰かが責任をとって死ねばそれ以上は追求できなくなる。そしてそれを一番分かっているのが警察だ」
「つまり、警察庁が先輩のお父様に責任を被せて自殺と処理した、と」
「ああ。これで他殺だなんて公表すればそれこそ大問題になるからな」
先輩は私の手にスマートフォンを返すと、そのまま起き上がり、一番近くの窓を開いた。そしてベッドサイドに置いてあった煙草を手に取り、火につける。煙草の煙は苦手だ。息が苦しくなる。そんな思いをするのは先輩とセックスをしている時だけで十分だと思っている。先輩は恐らくそれに気づいていて、私の前で煙草を吸うことは少なかった。久しぶりに見る尖った先輩の喉仏にうっとりと見惚れながら、私は、私たちの成したことが収束してしまったことを深く実感した。
「まあ、あれだけ情報が流出したらどうせ死ぬしかなかっただろうがな」
実父を嘲笑うような渇いた笑いだった。先輩が吐いた煙が部屋を昇り、しかしそれが宿命であるかのように外へと流れ出てゆく。私たちの犯行がなかったことにされることも、あの煙がこの部屋に留まることを許されないことも、何もかも先輩の思い通り。彼の掌上で私たちは愚かにもがき、まるで自分の意思で生きているように見せている。きっと私も。生物と無機物の違いなど、そう多くはない。
「……それでも殺したかったんですね」
その時の私には、隣の男を抱きしめる以外、何もすべきことがないように思われた。この人は孤独な人なのだ。長い間、独りだったのだろう。そしてそれに傷つきもしなかったのだろう。平気なふりばかりが得意になり、何が苦痛であるかも忘れてしまったのだろう。ぴたりと合わせた肌から流れ込んでしまったかのように、私の体を泣きたいほどの悲しみが渦巻いている。先輩はただ私の素肌に大きな手を乗せるだけだった。抱きしめ返すことも、煙草を吸うのを止めることもしなかった。けれど、拒絶しないことだけが私たちの肯定なのだ。それでいい。私はそれでいい。
「先輩、前に言ったでしょう。父親を殺して確かめたいことがある、って。何を確かめたんですか。ちゃんと確かめられたんですか。……教えてください。それ以外は、何も聞きませんから」
弱者というのは得てして何かに縋るものだ。だから何かを頼むときには弱いふりをすればいい。
それは私が女という特殊な社会を生きてきた中で自然に身につけたことだった。女は弱いふりと強がりを使い分けるのが上手い。使い分けることが苦手なふりすら上手いのだ。そして互いにそれを薄らと察しながら、些細な貸しをつくり合って生きている。私は弱い。神に跪いて乞い縋る愚者でありたい。
「――俺にも、祝福された道はあったのか」
煙草の煙をなぞる、平べったい声がした。私は先輩の胸元に顔を埋めて、歪んだ自分の顔を見えないように隠した。尾形百之助という男は祝福を求めていた。思えばたくさんの女性と体の関係を持ったことも、一種救いや祝福を求めて故だったのかもしれない。否定を拒み、肯定だけを望む先輩の生き方の根底にはそんな思いがあったのだ。きっとそれは私からの祝福では満たされない。他のどの女にも無理だ。そう思わなければ嫉妬で発狂してしまう。唯一人、血の繋がった父親からの祝福。その可能性について先輩は確かめたかった。そのためにはあの日、私たちが犯した大罪がどうしてもどうしても必要だったのだ。きっと。
私は乞い縋るようにして先輩の唇に自分のそれを重ねた。煙草の苦い味が口いっぱいに広がる。当てつけのように先輩は何度も舌を絡めてきた。いつの間にか持っていた煙草はなくなっている。それを確かめる余裕くらいはあった。口づけは、肯定になり得るのだろうか。この口づけを終える頃には今浮かんだ稚拙な疑問など忘れているはずだ。さっきまで煙草を持っていた手が私の肩を掴む。そのまま私たちはまたなし崩しのようにして抱き合った。私は存在を確かめるように何度も彼の顔や体をペタペタと触り、彼は私のあらゆる皮膚に唇を添えてきた。これまで以上に野蛮で野生的な性交だった。ひどく興奮した。それは私だけではなかっただろう。もう恋と愛の狭間がどこにあるかも分からない。私たちは今どこにいて、これからどこへ行けるかも分からない。それほどまで先輩という存在が私の邪念をかき消してゆく。
たった一夜の恋。そう思っていたのも、随分と昔の話のように思える。何度越えても甘いだけの夜は、もしかしたら繋がっていたのかもしれない。夜を越えて朝が来たと思っていたのは私だけ。本当は、あの日、尾形百之助という存在に触れた日から彼の纏う夜に閉じ込められてしまったのかもしれない。あゝ、私はそれでも。――そんな何の意味もないことをまた考えた。 「ねえ、先輩。大学を出たらこことは違うところへ行きましょう。そこで二人で暮らすんです。誰も私たちを知らない場所で一から。ね」こんなはずではなかった。恋に身を焦がし、命を燃やし尽くす蛍の如き生き方を望んだことは一度もない。しかし、いまの私は永遠の夜を彷徨う蛍であって、それ以外の何者でもない。蛍の灯すあの美しい光は求愛だと聞いたことがある。やっぱり同じだ。私の発するすべてが彼への恋情を謳っている。だから、どうか聞いてほしい。刹那の欲に身を滅ぼされる愚者の戯言のような愛を。
「先輩、あいしてます」完結 2022/01/07
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