元人気俳優の覚醒剤所持、警察幹部の汚職事件、コミックバンドの盗作疑惑。世間を騒がすニュースたち。電光掲示板に流れてゆく文字を一つ一つ追っていても、数分後には何の話だったか記憶にない。ほんの一瞬、記憶に留まり私の関心を引く。あのニュースの文字の羅列は、それだけのために存在していてもおかしくないように思えた。情報が溢れ返る世の中で、私たちがこれから起こす一つの事件も、同じように流れ去ってゆくものの一つになるのだろうか。

 見ていたテレビがプツリと切られた。後ろから怠そうに手を伸ばしてリモコンを持っていたのは先輩だった。私の「あっ」という声。先輩のまだまだ眠そうな欠伸・私はその猫のような横顔を見て、まあいいかと言葉を飲む。先輩は髪をかきあげながらシャワールームへと消えていった。学校からもそれぞれの自宅からも遠い場所にあるホテル。シングルでもダブルでもなく、ツインのベッドはなかなかに新鮮だったが、結局私の方のベッドに二人で寝たので意味はなかった。先輩が眠るはずだったベッドには無造作に脱ぎ捨てられた昨日の服が置かれている。

 二人で強く抱き合った温度を未だ残すベッド。この乱れた寝室も、私たちが出ていけばすぐにホテルのスタッフによって何事もなかったように整えられるはずだ。そしてまた他の誰かを迎え入れるだろう。私の恋もそんな風に簡単に冷めて、整理されてしまうものだったらよかったのに。そうすれば今頃――。目を閉じる。馬鹿な考えは捨てなくては。視覚を閉じると途端に聴覚が敏感になった。響く水音。先輩の体を濡らすシャワーにすら嫉妬する。誰も私の恋を止めてはくれない。

 先輩と入れ違いでシャワーを浴びて、化粧を施し、昨日と同じ服を着る。先輩は私が化粧をしている間に髪の毛を整えて、彼もまた昨日と同じ服を着た。昨日の晩に広げた荷物は化粧ポーチと替えの下着くらいで支度はすぐに終わった。いつもより少しだけ大きなカバンが二つ。並んで置かれていたそれらを先輩が持つ。

「行くぞ」

 私ははいと頷いて差し出された手を取った。どこにも逃げ場はない。どろどろに溶けた鉄のような愛だけが目の前に存在している。あの、私が初めて彼と体を重ねた美しく愚かしい夜のように、先輩は「まだ引き返せる」とは言わなかった。私も、もう引き返せるとは思わない。どこまでも、どこまでも、先輩という底のない沼に沈んでいく。それを心の底から望んでいる。

 ホテルを出て、私たちは荷物を駅のコインロッカーに預け、手持ちの小さな鞄だけになった。身軽になった二人は側から見ればデートに行くカップルだと映るだろう。誰も小さく震えた私の手には気づかない。誰もこれから人殺しに行く男女だとは思わない。日常の中に、愛や殺意は平然と芽吹いている。

 私たちはそこから先輩の父親がいるという場所へと向かった。駅からバスに乗り、20分。バスは空を飛ぶようにして山道を登った。人気のないバス停では私たちだけが下車し、バスが走り去れば山の静けさが私たちを包み込む。本当にこんな場所に先輩の父親がいるのか。頭の中にぼんやりと浮かんだ疑問をまるで見透かすようにして、先輩は迷いのない足取りで歩き始める。父親の自宅は東京にあるが、この道を少し進んだ先に別邸があるらしい。それを聞いて納得した私は、先輩の後に続いて足場の悪い道を進んだ。

 先輩から、父親を殺す手伝いをしてほしいと頼まれて以来、いざその時が来たらどんな気持ちなのだろうかと考え続けてきた。今日、ようやくその答えが分かる。私は、彼は、何を思って刃を向けるのか。僅かに震える手だけは正直で、あとはみんな壊れてしまったように不自然なほど穏やかに動いていた。

 道を15分ほど進んだ先に、その別邸はあった。古いが立派な日本家屋風の建物で周囲の山景色に対して浮いている。玄関の前で先輩は足を止めた。
 表札もなく、何も知らなければ空き家のようにすら見える。別邸という言葉の割には使用感がなく、死んだような空気を纏っていた。

「顔を合わせたら俺の話に適当に合わせてくれたらいい。話の途中で、俺が席を外すように言う。そしたら外に出て、庭の物干し竿で窓を外から開かないようにしてほしい」
「それだけですか」
「ああ。あとは部屋の中には背を向けてろ。見たかねぇだろ」
「分かりました」

 先輩の指が古いチャイムを鳴らした。反応はない。本当にここにいるのか? 先程と全く同じ疑念が湧く。先輩はははんと何か分かったような顔で、「こっちだ」と庭に回った。大きな窓。縁側。庭には確かに使われた気配のない物干し竿があり、窓の右側に嵌め込めば開かなくなりそうだった。先輩が足を止める。部屋の中には人がいた。老いた男性。部屋は畳ばりの書斎のようだった。男性は私たちに気付き、ギョッと驚きを顔に滲ませる。想像に容易いことだ。こんな辺鄙な場所に誰か来るとはまさか思うまい。

 男性は先に先輩を見て、そしてその隣に立つ私を見た。眉間に深く皺が寄る。十数年ぶりの我が子との再会を喜ぶ顔には見えない。歓迎されていないことは言葉を交わさずとも理解できた。私と繋いでいた手を離し、先輩が窓をノックする。古い窓はギシギシと耳障りな音を立てた。三度ノックしたところで、観念したのか男性は窓の方に近づき、鍵を開けた。

「お久しぶりです」

 嘘のように爽やかな声。それが隣にいる先輩から発せられているとはとても信じ難い。今までに聞いたことのない声だった。しかし、そのことに対する驚きを感じ取られてはまずい。私は顔を隠すように、やや控えめな声で「初めまして」と挨拶をしてから頭を下げた。

「……何しに来た」
「彼女と結婚することにしたのでご挨拶に来ました」
「そんなものは不要だ」
「まあ、そう仰らないでください」

 胡散臭い笑み。サークルの飲み会で度々見たことのある顔。誰にも心を開かず、常に孤独で、それすら自身の魅力とする。私が彼に興味を惹かれた理由の一つだ。

「私がぜひご挨拶させてほしいとお願いしたんです。突然押しかけてしまい、申し訳ありません」

 老いた男性――先輩の父親は、先輩の一言一言に警戒を示していたが、私の言葉で話さなければ帰らないとでも思ったのか、面倒臭そうにため息を吐いた。

「上がりなさい。今、玄関を開ける」
「ありがとうございます」

 彼は今、自身の命に突き立てられる刃を迎え入れたことになる。私と先輩は揃って頭を下げ、玄関口へと回った。先輩が「分かったか」と先のことを確認してくる。私は声を出さずに頷き、了承を示した。彼の口元に僅かに微笑が浮かぶ。同時に私の心に浮かんだ衝動的な劣情も、殺意に似たようなものだった。愛と殺意は常に表裏一体でなくてはならない。

「お邪魔します」

 私たちはそのまま先程外から見ていた書斎へと通された。部屋の中央に小さな卓が置かれており、それを挟むようにして座る。時計の針が動く音がやけにうるさい部屋だった。部屋全体には畳の匂いが広がり、先輩の父親を真正面からマジマジと見ると、確かに目元がよく似ていた。それはきっと両者にとって喜ばしいことではなく、むしろ親子であるという皮肉な証明なのだろうけれど。

 歓迎の証である茶も菓子もなく、私たちが向き合ったところで計画は動き出す。先に口を開いたのは彼の父親の方だった。腕を組み口を曲げ、偽りとは言え、息子とその婚約者が来ているというのに、不快感を隠そうともしない。

「わざわざこんな場所まで押しかける必要はないだろう」

 開口一番かけられたのはそんな言葉だった。

「今は大変な時期かと思いまして。それに東京で誰かの目につくのは嫌でしょう」

 先輩の言葉に、男性は閉口した。事情は知らないが先輩の指摘は図星であったらしい。それから彼は私のことを改めて父親に紹介した。大学で出会い、来年には籍を入れる予定であること。結婚式も披露宴もしない予定なのでせめて挨拶くらいはと思ったこと。婚外子である自身の存在を公にするつもりは今後もないこと。極めて真っ当な会話であった。私は前もって言われていたように、大人しく彼の後輩、恋人、婚約者を演じた。とんだ茶番であることには間違いない。

「それだけか」

 先輩が話を終えると、彼の父は漸く事が終わったかとでも言うようにして、私たちに冷たい視線を向けた。あまりに無感情な言葉だった。先輩のことなどどうでもいいのだと改めて残酷な事実を突きつけている。私はふと隣の先輩を盗み見た。先輩もまた無感情に薄ら笑いを浮かべている。これまでだって一度たりとも彼の心情を理解できたことなどないが、その時もいっそう彼の考えが読めず、私は不安になった。今の父親の言葉で彼は傷ついたのだろうか。それとも知っていたことだと納得したのだろうか。彼が言っていた確かめたいことは、確かめることができたのだろうか。その場ですぐに訊けないことがもどかしい。

「……最後に、二人で話をさせてくれませんか」

 来た。

 父親は不満そうではあったが、彼があえて出した『最後』というワードに釣られたのか私の方に視線をやり、退室を許可した。私は「失礼します」と改めて頭を下げ、部屋を出た。がらんとした廊下。来た道を引き返して玄関の方へと向かう。私を追い立てるようにして書斎の扉の鍵がかかる音が響いた。足を早める。玄関で靴を履き、外に出て庭に回った。焦りだけがあった。まさにその瞬間にも、殺人に加担しているというのに。

 庭から先程までいた部屋の前に周り、物干し竿を取って窓の枠にはめる。上手くはまったおかげで窓は内側から開くことはない。私は言われた通り、窓の近くの壁に背をつけてしゃがみ込んだ。殺人教唆を持ちかけられても、彼の冷たい視線を目の当たりにしても、彼を恐ろしいと思うことはなかった。でも、殺人現場を生で見たいとは思わない。冷たい外気に体を晒し、ようやく自分の体温が緊張で上がっていたことに気がつく。気が付いた瞬間から解けるようにして指先が凍り始めた。

 ガタリと何かが崩れる音。うめき声なのか、最期の叫び声なのか分からない男の声。先輩の父親の声だ。今度は重量のある物体が倒れ込むような音がした。私の背中と壁一枚を挟んだ向こう側で、今まさに子が父を殺している。これは双方にとっての悲劇である。神話の一章に刻まれていてもおかしくない。子は親に無条件に愛されたいと願うものだ。しかし、それが常に叶えられるとは限らない。愛の需要と供給が一致しなければ悲惨なすれ違いが生まれ、それは今日の日のような結末を迎えることもある。私は、物語の名もなき端役に過ぎないのだろう。例え先輩がのちに悪のヒーローになろうとも、父親殺しの英雄になろうとも、彼が愛した女性として語られる日は来ない。そのことだけは仄かな確信を帯びている。

「呪われろ」

 その言葉を最期に、室内から彼の父親の声が聞こえてくることはなかった。絶命したのだ。現場を見てもいないのに、状況をはっきりと理解することができる。人を殺す。呆気ないことだった。不安と焦りはあり、恐怖は後回しになっていた。手の僅かな揺れは、遅効性の恐れのためか、凍えるような寒さのせいかもはや分からない。私はなるべく部屋を見ないようにして物干し竿を外して元あった場所へ戻し、服で指紋を消し取った。ギシギシと音を立てて窓が開く。先輩の服にはべっとりと血がついていた。それでも、彼が好きだという気持ちが揺らがない。言われるまでもなく呪われている。私も。おそらく、彼も。

「終わった」

 いつもの先輩の声だった。取り繕っていない、無感情で冷たく、それでいて私の耳朶をなぞるような甘美な。彼の声を聞くほどに募る愛が私を生かす。終わってしまった。こんなものかと拍子抜けするような不思議な感情を残し、私たちの計画が。

「早く、帰りましょう。あんまりここにはいたくないです」

 先輩が微笑う。呪われた男と女。自由になりたいとは思わない。赦されたくもない。赦しなどなくても彼を愛してしまうから。ただ生きていたい。彼と永久に地獄のようなこの世の中を生きていたい。人一人の命を奪った日に願うにはどれだけ罪深い願いか。神や仏がいるなら罰が降るだろう。無宗教の私たちには、まるで関係のない話である。