「この前の飲み会さ、途中で帰った?」

 私は、彼女の懐疑を興味で隠したような視線の使い方が嫌いだった。女子の会話というのは得てして中身がない。それはそこに本心が存在していないからだ。親しい間柄であるならばともかく、私と彼女のようなただ同じサークルに所属しているだけの関係においては殊更である。

 彼女――東原めぐみは、昼食時間の食堂にてわざわざ私を見つけ、さも偶然かのように私の前の椅子を引いた。何か話をしたいことがあるのは明白で、彼女が私に何か話したいのだとすれば、それは先日の飲み会の件だろうということも、数十分前から分かりきっていたことだ。投げかけられた質問に対し、私は漸く本題に切り込んでくれたことに安堵する。好まない人間と食事をすることほど苦痛なことはない。

「久しぶりにお酒飲んだら酔っちゃって。気分悪くなって帰ったんだよ」

 ペラり。紙を捲るように嘘をつく。彼女は「そっか」という短い相槌の間に瞬きほどの間隔で、疑うような視線を寄越した。遠いサバンナにおいて、肉食獣の狩はメスの仕事であるという。女は本能的に、相手の弱みや普段通りでない部分を見つけるのが上手い。彼女は今、私相手に尋問という名の狩をしているのだ。私は一匹の野うさぎで、先輩の前でも彼女の前でも自らを守る術を嘘しか持たない。それは脆く頼りない。私は常に狩られる側の人間だ。

名前がいなくなったのと同じくらいの頃に尾形さんもいなくなったから、まさかと思ったけど。それは流石にないか」

 私とめぐみの会話で、初めて本音が漏れる。彼女はあの晩の先輩の相手が私ではなかったことを証明するためにここにいるのだ。私は曖昧に笑い、さも当然のように「まさか」と言った。でもあれは本当にまさかな出来事だった。本音に近い。現実と想像はいつもかけ離れたところに存在するものだが、それは本人だけが知っていればいいだろう。

 めぐみは、私の小芝居を疑いもせず、弾けるような笑顔で「そうだよね」と笑った。彼女もまた、先輩の周りを飛び回る一匹の蝶だ。先輩が彼女のような存在を煙たがっているのか、それとも美しいと思っているのか。当人しか分からない。だからせめて愛されようと鱗粉を巻いて誘惑し、他を追い払うことに余念がない。私ごときに労力を割くのは彼女のプライドに反するのだろう。肝心の質問を終え満足すると、彼女は本日のランチであるカレーを食べる手を早めた。私がゆっくりと咀嚼する間にも茶色い泥のようなルーはなくなってゆく。

「そういえばあの噂は本当なのかな」
「噂?」
「尾形先輩は、女とは一緒に寝ないって」

 私はその時、ふと思いついた疑問を彼女に投げかけた。意趣返しのつもりでもあった。女は常に右手にナイフを携えているような生き物だ。浅くとも深くとも、刺されたら刺し返す。欠片でもプライドが傷付けられようものならやり返さねば気が済まない。あいにく、私にそこまでの闘争心はなかったが、ほんの意地悪のつもりで尋ねた。本当のところを知りたいという純粋な疑問でもあった。

「本当じゃない? 私の時もそうだったし」

 何食わぬ顔で相手を牽制する。慣れた女だと思った。

 めぐみは分かっていたくせに、『うっかり言ってしまった』という表情を見せた。そして人差し指を口元に当て、私に「内緒ね」と言う。何を内緒にしたいのだろう。先輩と関係を持ったことがあるという事実か。それともそれを自慢げに語って見せた自分の愚かさのことか。どちらにせよ恥じらいのない女である。ふつふつと湧いてくる彼女への嫌悪感をおくびにも出さず、私は頷く。私は彼女と敵対すべきではない。私がどれだけ先輩に爛れた恋情を抱いていたとしても、それは誰にも見透かされるべきではないのだ。あの日、彼に抱かれながら見た夢の話を、誰にもくれてやるつもりはなかった。ただ一つ、確かめるべきはあの朝のことだけである。

「じゃあ私行くから。またサークルで」

 めぐみがトレイを持って立ち上がった。三限へと向かう生徒の波にその姿が埋もれたところで息を吐く。私は五限まで空きコマだ。人が落ち着いたら図書館にでも行って、授業の用意をしよう。そう決めていた。私は普段通りの私に戻らねばいけない。先輩と明かした夜から一週間が過ぎ、私はもう数え切れないほどそう自分に言い聞かせていた。逆に言えばそう言い聞かせねばいけないほどには、私は普段通りの自分というものを見失っていた。

 夜になれば先輩の素肌や唇の熱を思い出し、朝がくればあの絶望にも悦びにも似た感情に苛まれる。授業の合間にも煙草を咥えた先輩の横顔がチラついた。それは正しく恋であった。でも呪いのようにも思えた。ドラッグに手を出した人間というのはこうして破滅のループに陥るのだろうかという妙な感覚。いっときの快楽に、私は完全に狂わされていたのだ。

 尾形百之助という人間に関し、私が知っていることは少ない。そしてそれは私だけでなく彼の周囲によくいる人間ですら同様だった。

 先輩には多くの知人がいたが、友人はそう多くないように見えた。サークルで彼と話しているのは、おおよそ彼のおこぼれを狙うトンビのような意地汚い人間ばかりで、まともな人間は先輩には近づかない。飲み会で先輩のテーブルには同じ男子と、毎度違う女子が座っていた。私は先にも述べたように先輩と同じテーブルについたことはないが、いつも近くの席については彼らの話に耳をそば立てていた。いついつの授業をサボった、単位を落とした、留年しそうだ、何時まで飲み明かした、何人と寝た。毎度のことながら彼らの会話には品がなく、得てして聞きたい内容でもない。そしてその男子大学生が口癖のように口にする自慢話に、先輩が乗っかった試しはなく、何か聞かれてもいつも返事を濁すだけであった。だから余計に彼の情報は集まらず、私は掘り炬燵の底でよく地団駄を踏んだものである。

 では何故、私は彼を好きになったのか。

 書き残すほどの価値もないことだ。サークルに入って初めて彼に出逢い、彼の話を聞いたときに感じたのは確かに嫌悪感だった。これまで自分の周囲に存在したことのないタイプ。どんな人なのだろうと興味が湧いて、少しずつ目で追うようになった。話にこっそりと聞き耳を立てるようになった。そうしてのど飴ほどの好奇心が、いつの間にか風船ガムのように膨らむ下心へとすり替わったのだ。彼は本当はどんな人間なのか知りたいと願った。否、それは無理でもせめて彼がどんな風に女性を抱くのか知りたくなった。どんな風に触れ、どんな言葉をかけ、どんな手で自分の欲を満たすのか。想像すればするほどに彼という存在に惹きつけられ、彼という存在に狂っていく。二十歳の恋は、これまで私がしてきたどんな恋とも違っていた。だからこそ、これまで感じたことのない感情で私は今、埋め尽くされている。

 大学の食堂を、慎ましい静寂が支配する。三限開始の鐘が鳴ると、先ほどまで喧騒が嘘のように食堂は静かになる。私はこの瞬間が好きだった。波打ち際に一人で残された時と同じ感覚。不思議と冷静な気分になり、よく集中して物事を考えられる。集中して考える内容が、恋や男の話であるとは実に不健全だが致し方ない。ここ数日の私はそればかりだ。

「よお」

 私一人が存在している海辺に、低い声が響く。顔をあげると先輩が、先ほどまでめぐみが座っていた席の前に立っている。黒のタートルにベージュのロングコート。モデルのような立ち姿は、まばらに残った女子生徒の目を引いていた。

「こんにちは」

 私の中の先輩とは、常に夜という空間にのみ存在していた。多くの場合、熱気渦巻く飲み会の一テーブルであり、時に女性と並んで消えていく雑踏に。だからこうして明るい日差しを浴びる先輩を見ると、まるで昼中の流星を捕まえてしまったような気持ちになる。それを望んでいたとしても、いざその時が来るとどうすべきか、とんと分からなくなる。私のこの困惑が、私を見下ろす彼にはどのように見えているのだろう。不安と焦り。つい先日のことが口から出そうになる。なかったことにするには、あまりに私に与えられた時間が短すぎる。

「授業は?」
「今日は、あと五限だけです」
「明日も同じか」
「えっと、そう、ですね。同じです」

 ぎこちない会話。彼が淡々と一定のリズムで放つ球を、私が必死に打ち返す。テニスというよりスカッシュに近い。私は、ここで私に話しかけた彼の真意を探ろうとしたがどうにも不可能だということだけが先に判明する。女子が探りのプロなら、彼は隠しのプロだ。自分の本心はおろか、自分という存在も掴ませはしない。

 先輩は右手でスマートフォンを取り出し、空いた左手を私の方へ向ける。意図が分からず戸惑っていると、テーブルの上に置きっぱなしになっていた私のスマートフォンを指さした。私は慌ててそれを彼の左手に乗せる。少し大きいと感じていたそれも、彼の手の上では小さく見える。途端に、あの手に散々愛撫された自分の胸元あたりを思い出し、顔を伏せた。一週間が経っても彼が残した感覚は鮮明だ。自分の手で彼の素肌に触れた記憶はとうに失ってしまったというのに。

 私のスマートフォンを受け取った先輩が、慣れた手つきで電話マークを押し、テンキーをタップする。次にブブブと振動したのは、彼の右手にある彼のスマートフォン。彼の履歴には私の番号が、私の履歴には彼の番号が残された。そしてそれがそのまま私の手に戻ってくる。あえて履歴を開いて確かめるような真似は恥ずかしくて出来ない。ただ画面にうっすらと残った彼の指紋をなぞってこっそりと喜んだ。

「また連絡する」

 あの朝、シャワールームに消えていったのと同じように、また先輩は振り返りもせずに去ってゆく。何の目的でここに来たのか。私の番号を入手したのか。そして彼の言うまたはいつなのか。引き止めることもできない私の周囲には、平穏で音のない昼下がりが戻ろうとしていた。