「こんなはずじゃなかった」
目が覚めた時、絶望と愉悦の狭間にいた。昨晩の出来事は泡沫の夢に終わるはずだったにも関わらず、私の目の前には猫のような目を伏せて眠っている男が1人いる。名前は尾形百之助。サークルの一学年上の先輩でありながら、歳は3つ離れている……らしい。『らしい』というのは正確な年齢を彼本人に確かめたことがないから知らないだけの話だ。その尾形先輩と私がなぜ共にホテルのベッドの上で朝を迎えているのか。そして、それがなぜ「こんなはずじゃなかった」ことなのか。説明するとやや長くなる。だが書かねばならない。何故なら、本当に私はこんなはずじゃなかったからだ。
先輩。私は尾形百之助のことをそう呼んでいたので、ここでもそう呼ぶこととする。先輩のことを端的に述べるとすれば憧れの人、まさしく高嶺の花である。誰かに言えばそう良い人間じゃないと言われてしまいそうだが、私にとって先輩は手の届かない存在だった。
私の所属するテニスサークルにおいて彼は一際有名人だった。それは彼が3回の留年をしていることや、大人の色香を纏うイケメンであるからではない。彼の、その決して褒められたものではない素行のためである。彼はいわゆる遊び人だった。しかもそれは私たちのサークル内だけでなく、大学全体でもそこそこに有名な程。『テニサーの尾形』といえば、大学入学以来食った女は数知れず。噂によれば50とも100とも言われていた。年上、同期、年下おおよそ関係なく、彼と関係を持ったらしい女は多かった。もちろん、私たちのサークル内でも同様である。もっと言えば、彼目当てにサークルに入会するような女子もいる。
テニスサークルといっても練習参加は任意で、練習に真面目に参加するメンバーが半数、もう半数は月に一度の飲み会にだけ顔を出すメンバーだ。先輩も後者の一人。正確には、先輩にとってのサークルの飲み会はお酒を飲んで話をするためのものでなく、その晩の遊び相手を手っ取り早く仕入れるための場所だったのだろう。彼が飲み会で見せる、女を見定めるような視線を私は知っている。指名手配犯を探す警察官のような、はたまた小鹿に狙いを定める凶暴な豹のような視線。
昨晩、その視線の先にいたのは私だった。初めてのことだ。サークルに入会して一年と少し。飲み会の度に彼を目で追うようになってからは半年が経っていた。熟れた飲み場の雰囲気から抜け出し、鞄を抱えて店の前でスマートフォンを弄っていた私に影が差す。先輩だった。さっきまで盗み見ていた男が、捻くれた微笑を湛えて自分の目の前に立っていたのだ。「よお」
ほんの数秒にも満たないような、短い言葉。しかしその時の感情を言葉で表すのに私は何時間も要した。彼から初めて認識され、初めて声をかけられた。練習に参加しない先輩との接点は飲み会しかなかったが、彼の周りには彼に抱かれたい女子とそのおこぼれに預かりたい彼の同期で溢れていて、これまで同じテーブルに着いたことすらなかったのだ。にも関わらず、昨晩の彼は完全に私を同じサークルの後輩として認識し、私に向かって親しげに声をかけた。それは、その晩の相手をお前に決めたというしるしに他ならない。
私は咄嗟に会釈の代わりに頭を下げ、歓喜に濡れる自らの顔を伏せた。見られたくはなかった。これまで何度も先輩の姿を見ては、その腕と声に抱かれて善がる自分を想像したが、そのお鉢が本当に自分の元まで回ってくるとは思わなかったのだ。しかし、昨晩、その瞬間、私は自分がオーディションを勝ち抜いた子役にでもなったような気がした。
私は選ばれた! あの猫撫で声で先輩に擦り寄る女の先輩や、飲み会の日にだけやけに短いスカートを履いてくる後輩ではなく、私が!
先輩はコートから煙草を一本取り出し、徐に火をつけた。東京の夜に彼が明かりを灯す。火の玉のような橙が浮かび上がり、私がそれに気を取られているうちに鼻腔には独特な匂いが入り込んでくる。彼が吐き出した煙が、薄汚い都会の酸素、窒素と混じり合い、私の肺を汚す。煙の通った後の喉は焼けるように痛み、煙を吐く合間にちらりちらりと向けられた彼の視線に晒されているだけでもう既に口づけでもされたようなほど顔が熱くなった。恐ろしい人だと思った。しかし私の足は地面に縫い付けられて動かせない。ただじっと、彼の煙草が短くなるのを見ていた。
落ちていく砂時計の砂。回り続ける時計の長針。規則正しい通行人の足音。刻一刻と過ぎる時の流れを教えてくれるものたち。彼の煙草も、その時の私にとってその一つだった。先輩は煙草を吸い終えると、それを足で踏み消し、そのまま道路脇の排水溝の穴に落とした。目の前でゆらゆらと灯っていた明かりが消え、街灯の光だけとなると途端に心許ない気持ちが押し寄せてくる。ほんのわずかな恐怖もあった。店の中からは相変わらず続く飲み会の騒ぎ声が漏れ聞こえていたし、少し彼から目を外せば通行人もまだ数人はいる時間帯だった。しかし、彼の乾いた視線を向けられると、どうしても世界に二人だけになったと錯覚してしまう。世界から隔絶された私は行き場なく、泣きそうな顔をしていただろう。
「――行くか」
ボソリ。彼がさっきまで右手に持っていた煙草をそうしたのと同じように、言葉を地面に落とす。まるで私を待たせていたかのような口ぶり。しかし、それは正しい。私は確かにその場で彼を待っていたのだ。苦手な煙草の煙すらも、彼が与えてくれるものだからと飲み下し、息が詰まりそうになる空間で必死に呼吸を繰り返しながら。昨晩だけに限ったことではない。もっと前から。彼という悪魔に魅入られた日から、私は、彼から夜に誘われるのを待っていた。
「私でいいんですか」
それは、愚か者の科白に違いない。私はさっさと行こうとする彼の右肩あたりに向かってそう尋ねた。言葉が欲しかった。どんなに下衆でも卑劣でも構わないから、ただ一言、お前に決めたのだと言って欲しかった。今夜はお前を抱く、と。
「嫌なら引き返せ。まだ戻れる」
そんな私の浅はかな承認欲求など見透かしたように、彼が冷たい眼差しを向ける。もう髪の先からストッキングまで、彼の愛用の煙草の煙に巻かれてしまったのに今更だ。首を横に振る。弾かれたギターの弦のような声で、行きますと言った。改めて宣言したことが可笑しかったのか、先輩は馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、また前を向いた。恐れを殺し、悦びと羞恥だけに身を預け、彼の隣に並ぶ。分厚い手が腰を抱いた。もうそれだけで十分なような気さえしたが、逃げられやしない。もう戻る機会などなかった。
もし、彼と寝たことがバレてサークルに居場所がなくなっても構わないと思っていた。サークルに彼と関係を持った女子も、今後そうなることを望む女子も多く在籍していたが、私がその一人だとは誰も知らないだろう。初めて、彼と並んで歩く夜。不思議なほど鼓動の音が鳴っていた。今にも壊れそうな心臓を携えて、夜の悪魔に魂を売る。昨日の私はどう見えていただろう。浮かれてはしゃぐビッチに見えたか。それとも連行される容疑者のように見えたか。どう言われても信じられる。それほど、昨晩の私は普段通りを失っていた。
勝算ではないが、一つ考えがあった。それは巷で有名な噂に基づいている。『尾形百之助は行き摩りの女とは共寝しない』というものだ。彼はひどい遊び人でありながら、女性に対して潔癖であるという面倒な性分を兼ね備えているらしい。そこら中の女とセックスすることはあれど、枕を並べて眠ることはない。事を済ませば、シャワーを浴びて、煙草を一本吸って出ていってしまう。それもあって、彼が一晩で何人の女を梯子したのか、という議題は一度飲み会の席で話のネタになっていた。彼は明確な答えは言わず、誤魔化していたと記憶しているが。
だから、私もその噂は自分自身にも当てはまると確信していた。私は一晩、彼の快楽を満たす相手だ。きっと私ともセックスを終えれば彼はそそくさと出ていくだろう。だから極度の緊張もそう長くは続かない。明日の朝になれば、私は普段通りの生活と自分を取り戻せる。売った魂も戻ってくる。だから大丈夫だ、と。
ラブホテルに入ったのは人生で初めての経験だった。それどころか、私は大学の最寄駅から歩いて15分もしない場所にそういった場所があることさえも知らなかった。映画やドラマでよく見るような、壊れかけのネオンの看板を掲げたホテル。入るときに一人、金髪の男とすれ違った。誰かと一緒でなければ絶対に入ることのない場所から一人きりで出てくるような男性は、きっと私の隣にいる男と同類なのだろう。緊張しているからか、それともその後の出来事から目を背けたいせいか、頭はよく回り、周囲の気配をよく観察することができた。
ガタガタと不安な音をあげるエレベーターに乗り込む。彼は迷いなくキーに書かれた部屋番号のある階のボタンを押した。依然として腰に回った手はそのままそこにあった。なるべく思考をそこに向けないようにと歩いてきたが、こう静かで閉鎖的な空間では不可能だ。そんな私のことをまた見透かして、彼がお尻の少し上あたりにあった手のひらをスッと上にスライドさせた。びくりと体が跳ねる。驚いて彼を見上げると、歪んだ笑みを浮かべた彼が私を見下ろしている。彼にとったら私なんて自分を守る術を持たない野うさぎのようなものだ。首を掴んでひねれば簡単に殺せてしまう。彼ほどの狩人がそれで満足するとはとても思えず、私はまた愚かな問いを口から出しそうになったが、それは寸前のところで押し留めた。僅かな時間だ、無駄にはできない。胡蝶の夢だ。理由など必要ない。
部屋の入口まで来て、彼は持っていたキーでそれを開けた。私に入れと目で促す。そのまま素直に従った。そして彼はそのまま自分の身は部屋の外に置きながら、顎でシャワールームを指し、「入って待ってろ」とだけ言って扉を閉める。隙間から彼の手がコートのポケットに伸びるのを見た。煙草を吸うのだろう。私が煙草の煙を苦手としていることがバレたのだろうか。だとしても彼が私相手に気を使うとは思えない。いつもそうしているのかもしれない。そう結論づけて、私は鞄をテーブルに置き、言われた通りにシャワールームへと入った。シャワーを浴びろということだ。
そうなってくると、いよいよ彼に触れられるのだという現実が私の眼前に立ちはだかり、眩暈のような感覚に襲われる。ノロノロとしているわけにもいかない。私は服を脱ぎ、熱いシャワーで逸る心臓の音と緊張を洗い流す。やけにいい香りのするボディーソープで体は念入りに洗った。その行為が既に恥ずかしいような気もしたが、体を交えるならばいい匂いがするに越したことはない。私はついた泡をしっかりと洗い流し、少し硬いタオルでよく拭いた。相変わらず緊張は残っていたが、心臓は先ほどよりマシになったように思う。服はどうしようかと思い、バスローブも目に入ったが、それを手に取り纏う勇気はどうしても出せず、結局着てきた服をもう一度身につけた。簡単に着脱できないストッキングだけは脱いでおく。黒の無機質なゴミ箱に突っ込んだ。
シャワールームを出ると、明かり一つついていない部屋で窓際に彼が立っていた。月明かりに照らされ浮かび上がった背中は吸血鬼のように凍りついて見えた。世界を黒と白の二色に分けるとすれば、彼は限りなく黒に近い白の世界の縁にある。私はどうだろう。白い世界で白いままいられたのはつい一時間前までの話だ。私は黒に憧れていた。何物をも飲み込む圧倒的な色に。「お待たせしました」
彼が振り返る。私の姿を改めて下から上へと舐めるように見た。
「バスローブは」
「ありました。そっちに着替えた方がよかったですか」
彼が望むなら。着替えてきますと言った私を制するように、彼が「いや」と声をあげる。振り向きかけた足を止める。使い古したブリキ人形のようなぎこちない動き。一方、四肢の動きを掌握した彼はゆっくりと私に近づき、目の前まで来た。猫のような動作で彼が私の首筋に鼻を寄せた。緊張で流した汗は洗い流したはずだ。今の私は、ラブホテルのボディーソープと洋服に染み付いた彼の煙草の煙の混じった匂いがする。小さく口から息を吸った。
「お望みなら脱がせてやるよ」
彼の手が、私の肩にかかる。何を望んでいたのか、私には分からなくなっていた。ただずっとこの瞬間を待ち望んでいたことだけは本当のはずだ。尾形百之助という人間に、不純な恋をしていた。ああいう人を好きになったらどうなるのだろうという一種の好奇心。それがいつの間にか歪な下心に変わった。彼に狂わされてみたい。もうとっくに狂わされていたくせに、そんなことを思った。実際に彼に触れられ、服をたくし上げる動作を感じるだけでまた狂わされている。叫び出しそうなほどの羞恥と愉悦が込み上げて、泣いてしまいそうにもなった。あらゆる感情の引き出しがこじ開けられて収拾がつかない。私はどうにか彼の動きに応えるように身を捩った。不意に、唇が重なる。初めてのキス。あまりにも呆気なくて、キスされたと気づいたのは彼の形のいい唇が離れてからだった。
間抜けな声が漏れたかもしれない。そうしたらまた彼は私にキスをした。今度は否が応でも彼という人間をねじ込むようなキスだった。行き場のない手がシーツを掴む。溺れる者は藁をも掴むと言うが、その時の私には藁しか掴むものがなかったの方が正しい。もちろんそれだけでは頼りなく、何の支えにもならない。ただ流され、自分を見失わないようにするためには必要だったのだ。彼という人間に侵されて、戻って来られないことがないように。キスに応える。一瞬にも永遠にも思えた。彼の唇が離れた瞬間、堰を切って空気が流れ込んでくる。私は荒く息をしながら、私を見下ろす彼越しに、灰色の天井をぼうっと眺めた。
「初めてではねぇな」
私は頷く。私の初体験は、高校2年の冬、初めてできた彼氏と。彼も私も無知だった。痛みと血で汚されたそれはお世辞にも良い思い出とは言えないが、今となってはさっさと処女を捨てておいてよかったと思えた。今こうして彼に組み敷かれても必要以上の恐怖は感じていない。ただ今までに感じたことのない欲望に飲み込まれないよう、必死で彼を思った。目の前で私を見つめている冷たい瞳を。するりと髪を撫でる無骨な手を。私のリップが移って暗い部屋でも分かるほど染まった彼の唇を。最後になるだろう、彼との夜を真剣に思った。
夜の記憶は、そこでぷっつりと途切れている。私は確かに彼に抱かれ、淫らな夜は更けていった。忘れられない夜になるという確信だけは持ったまま、純情とはかけ離れたような女のふりをした。そうして目が覚めたとき、夢は覚め、私は悪魔に売り渡した魂を取り返し、また普通の女子大生に戻るはずだった。
そう、目が覚めるまでは。
目の前で眠る男。呼吸音も響かないほど静かな眠り。頭の下の太い腕。カーテンは薄く、朝の日の光を透過している。私はギョッとして、思っていたことがそのまま言葉になる。彼は行き摩りの女とは共寝しない。それは真実に限りなく近い噂だったはずだ。しかし今、彼は確かに私と枕を並べて眠っている。これは一体どういうわけか。訳が分からず、ひとまずこの場を抜け出そうと体を動かそうとすると、閉じられていた先輩の猫のような目がゆっくりと開いた。
「……帰んのか」
さも当然のように彼が私に問いかける。
「あの、大学の講義があって」
嘘だ。その日の授業は午後からだった。でも、その場を抜け出す言い訳はそれしか思いつかず咄嗟に嘘が口をつく。先輩は乱れた髪を直しながら体を起こした。シーツがずり落ちて、麗しい胸筋が晒される。明るい光の下で見ると、また昨晩の緊張とときめきがぶり返しそうになって目を逸らす。愚かな恋に終わりはない。
「もう朝か」
先輩は私より先にベッドから出て、落ちていたデニムを拾って履いた。そして、シーツを胸元まで上げて抑える私を振り返る。彼はテーブルの上に置かれた私の鞄に、乱雑に重ねられた私の服を顎で示し、「服」と言った。あそこに向かって脱いだ記憶はない。というか、服を脱いだ記憶自体がない。成り行きで脱いだだろうが、彼がそれを律儀に拾ってくれたのだろうか。まさか。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
先輩はデニムに上裸姿でシャワールームに吸い込まれていった。バタンと扉の閉まる音、続いて水音が響いた。あれだけ望んでいた彼との夜が終わり、待ち受けていたのは幸福感ではなく焦燥感。適当に服を着ると、鞄から財布を出し、札を掴んで引っ張り出す。こういった場所の相場が分からない。だから一番高価な紙幣を残した。私はそのまま逃げるようにして部屋を出る。
こんなはずじゃなかった。