それは鮮やかに瞼の裏に張り付いた春の雷。忘れもしない日のこと。きっとあなたの記憶にはない日のことを、私は未だ言えず。「嘘をつかない」と言ってくれたあなたに、小さな嘘を積み重ねしまった。

「恋人ごっこは終わりだ」

だから、全部、全部、私が悪い。

****

「あ? 泣いてんのか?」

トラファルガー先生は、病院内でも厳しいと有名な人だった。怖い顔に、目の下には濃いクマ。口調は荒く、いつも怒っているように見えなくもない。

 だから、次の担当がトラファルガー先生の患者だと知った時は実はちょっと憂鬱だった。同僚には「いいなあ」と言われたりもしたけれど。ただでさえビッグマムにあれこれ言われているのに、トラファルガー先生にまで怒られたら心が辛い。気を引き締めて頑張らなくては。

 当時の私は、とにかく仕事に慣れるのに精一杯で、気の回らない部分も多かった。怒られることもザラだったし、それは自分のミスだから仕方ないとは言え。20を過ぎて大人に怒られるのって案外きつい。
(はあ…)
こっそりため息。怒られた後のカフェオレはあんまり甘くない。

「…おい」
「ワッ すみません」

もたれかかっていた自販機から背を離す。トラファルガー先生だった。彼は私の横をすり抜け、迷うことなく微糖のコーヒーを押した。ちらりと見上げると、たまたま目があって、もしかしたらさっきのミスの話かと背筋を正す。

「あの、先程は…」
「あれはお前が悪い」
「は、はい。あの、すみません」

容赦ないなあ、と心の中で苦笑い。さすが天下のトラファルガー・ロー。同僚泣かせの海賊の異名は伊達ではないらしい。

「でも、その前の動きは悪くなかった。視野を広く持て、要領は悪くねえだろ」
「へ? …はい! 頑張ります」
「病院だぞ」

静かに、と彼が唇を横に結ぶ。じゃあなも言わずに離れていく背中。トラファルガー先生、案外怖い人じゃない。優しい、とまでは言わないけど。ちゃんと見ていてくれた。それだけで救われる気がした。頑張ろう。うん、褒めてくれる人もいる。

「…甘、」




 トラファルガー先生は、きっと覚えていなかった。私にかけた言葉も、優しさも。それは別に構わない。彼にとっては優しさでもなんでもなかったのだろう。
 でも、私にとっては。それ以来、彼を見かけるたびに目で追った。あんなたったの一言で単純な、と言ってくれるな。恋とは唐突に始まるものである。

「また見てる」
「ちょっと心臓に悪い」
「好きねえ、トラファルガー先生」
「うん 目の保養」

あれが?まあイケメンだけどさ。同僚がニヤリと笑った。トラファルガー先生は格好いいけれど怖いのも確かで。看護師の中では彼女のように、物騒じゃないかと言う勢力もいる。彼はまごうことなきイケメンである。私は別に顔が好きになったわけじゃないけど、顔も最高に格好いい。

「そんなに見てさあ。早く話しかけるなりなんなりすればいいのに」
「無理 絶対覚えてないもん」
「いいじゃん、また一から仲良くなれば」
「人と仲良くするタイプじゃない」

彼女が呆れたように息を吐いた。わかってる。関係を進めたいなら勇気を出すべきだし、そうでないなら友達に恋愛相談の真似事みたいなことはすべきじゃない。でも、だって。いいや、やっぱり。

 だから、それは私には千載一遇のチャンスのように思えた。いつも通り、彼のことを目で追って、たまたま見てしまった彼の秘密。世の中には不思議なことがたくさんある。誰か一人くらい魔法が使えたって、不思議じゃない。それが自分の思い人だった場合は、まあ多少は驚いたけど。

「トラファルガー先生って、魔法使いなんですか!」

彼と久しぶりに目を合わせた日。初めて彼の驚いた顔を見た日。
初めて魔法を使われた日。

それからの日々はまさに魔法のようだった。予期せぬこととはいえ、彼の恋人として振舞うことになり、彼の家に行き、動物園でデートし、ご飯も行った。私の部屋にも来てくれたし、たくさん話をした。

 何にもしてないくせに、幸せになったから。どこかで噛み合わなくなる。
 願いを叶えたいなら勇気と努力が必要だ。全部隠して偽ったままうまく行こうなんて、そんなこと許されるはずがない。そう、…そうだ。

『ずっと好きだったんじゃないの?』
『そ、そうだけど』
『じゃあそう言いなよ、分かってくれるって ――――トラファルガー先生なら』
『でも、今更なんて言えば、』
『シンプルにずっと前から好きだったって言えばいいの。それでフラれるならもう諦めな。男は地球に35億でしょ』

唯一、私とローさんの偽りの関係を知っていた同僚。背中を押してくれた。今日のこと言ったら、また呆れられちゃうかな。それとも一度にたくさん起こりすぎって頭抱えちゃうかも。それでもいい。最後まで聞いて、私の恋の行方を。

 店を出る。まだそんなに時間は経ってない、近くいるはずだ。
 病院近くの公園。少し先に見えた背中。――――いた。

「あっ、あの、トラファルガー先生…!」

彼が足を止めて振り返る。急いで駆け寄って、ちょっとこっちで、と端に寄った。彼はされるがまま。要件は、と私を見下ろしている。

「な、なんで突然終わりになったんですか、私がダメな彼女だったからですか。それとも、他にいい人が「お前が、」
「へ」
「ずっと好きだったんだろう」

…誰かは知らねえがな。
彼がプイッと顔を背ける。何を言ってるのかはわからないが、とにかく誤解があるのは確かだ。あんなに好きだ好きだと思っていても、言葉にしないから伝わらない。やっぱり私が悪い。意気地なしの、私がいけなかった。

「ずっと好きでした、」
「…」

彼の手を取る。さっき一瞬触れた手。大きい手。

「トラファルガー先生のことがずっと好きでした」

彼がたっぷり間をとって、ハ?と声を漏らしたあと、シュッと音がして景色が変わる。その感覚には覚えがあった。そう、それは初めて魔法を使われた日に。

「…え、」
「………」
「………ここ、は…病院?」
「な、なにしてんすか、二人とも」
「ペンギンさん?」
「…ちっ」
「ローさん、まh―――あれ使いました?」
「悪い」
「手離して喋ったらどうスカ」