「あ、キャプテーン! またきたんだ~」
ニコニコと手を振るシロクマ。隣の彼女が、可愛いとはしゃいでいることに、満更でもないらしい。シロクマのくせに。ここは、シロクマが喋る世界線である(嘘)。
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事の発端は、3日前。いつものように二人でランチを食べている時だった。ローのパン嫌いが発覚してからすっかりご無沙汰になったサブウェイに来ていた。新メニューが食べたいとぼやいた彼女に、遠慮しなくていいと言ったのは、パンが嫌いな30歳。ローはサラダボウルとポテトを注文した。
「……デート?」
「はい。付き合ってるのにデートの写真もないのか、見せろって」
「誰がそんなこと」
「シャチ先生です」
ローは舌打ちをした。なぜ身内に刺されないといけないのか。シャチが目の前にいたら体をバラバラにする魔法を使っていたかもしれない。いなくてよかった。
「でも、シャチ先生だけじゃなくて、写真とかないのって同僚にも」
「ああ」
「デートの話も、二人で嘘をついて矛盾があったら困りますし」
彼女の言うことはもっともだ。本来なら、この茶番劇が周囲にバレない努力はローがすべきなのだが、そんな男でもなかった。彼女が言わんとしていることを理解し、ローは面倒だなと思った。しかし、仕方ないかとも。ローにウキウキと惚気を求める人間がいない代償は、すべて彼女に向かうのだ。
「で、どこに行きてえんだよ」
「……行ってくれるんですか」
「だからそれはこっちの台詞だろ」
「へへ 実はビッグマムから優待券を頂いたんです」
ジャーンと見せられた優待券が二枚。【バギー動物園】。書かれた名前に、ローが大きなため息をついたのは言うまでもない。
迎えた10月の第一土曜日。休みが重なった2人は、動物園へとやってきた。ちなみに、以前、ローがドフラミンゴファミリーとやってきたのもこの動物園である。ローはこう見えて可愛らしい動物が嫌いではない。ふれあいコーナーで嫌々な顔をしつつ、モルモットに触った時に表情が和らいだのを、ドフラミンゴは見逃さなかった。
閑話休題。
女子供は、お菓子と動物が好きである。30年、女性関係を拗らせてきたローでも知っている浅はかな知識は、運よく彼女にも当てはまったようで、入園した時から終始、隣の彼女は嬉しそうだ。
ゾウにキリンに、ライオン、パンダ。大きいねえやら、かわいいねえやら、ありきたりな感想を述べながら回っていく。と言っても、ローはほぼ相槌を打っていただけだが。つい先日もやってきた場所に新鮮な感動はない。彼女のコロコロと変わる表情を見ている方が、いくらかマシだ。
「……なに探してる」
「シロクマがいるらしいんですけど、あっちですかね」
嫌な予感はしていた。先日、ドフラミンゴファミリーと来た時に、意気揚々と自分に手を振ってきたシロクマ。あいつは今日もいるのか? ローはしばし考える。病院の当直じゃあるまいし、動物園のシロクマが日替わりする訳もなかった。
「……あっちだ」
シロクマ館にやつはいた。いないはずがなかった。シロクマ館は室内展示で涼しい上に、水族館のように薄暗いので、疲れたお母さんお父さん、並びにカップルに人気スポットである。「おれベポっていうんだけど、キャプテン、なまえなんてーの」
なぜかガラスにへばりついて、自分にだけ話しかけてくるシロクマ。なぜこのシロクマはローを“キャプテン”と呼ぶのか。神のみぞ知る。
「わ、かわいいですね、ローさん」
「そうか」
「ローサンっていうの、キャプテン」
へえ~とシロクマが笑った(ような気がした)。夏場は涼しい日陰でグデンとしていたり、そうでなくともスイスイと客など意に介せず泳ぐのが常であるシロクマが、こうしてガラスのすぐ近くで客の方に顔を向けているので、ロー以外の客は全員喜んでいる。
「ねえ、そのこだれ? カノジョ?」
「人に慣れてるんですね、名前とかあるのかな」
「——ベポ」
「へっ?」
「…入り口に書いてあった」
「本当ですか! 見てなかった。ベポちゃんか」
ベポは男である。失礼、雄である。
ローはムッとしたシロクマの表情を(なぜか)機敏に感じ取り、訂正しようかと思ったが、そこまでこのシロクマについて詳しいのもおかしな話になってしまう。魔法が使えることを彼女が知っているとして、「俺はシロクマと会話ができる」なんて堂々と言うつもりは毛頭なかった。
「ねえ、カノジョ? あとおれはオスっていって!」
「なんかバタバタしてますね」
「キャプテーン」
「腹でも減ってんじゃねえか」
「確かに。私たちもお昼にしますか」
「ああ」
「エサやりタイムはもうおわったよ~ キャプテンもういくの~」
シロクマにもおしゃべりと無口があるのか。はたまたローの魔法が通用するのがあのシロクマだけなのか。とにかくしばらく動物園に来るのはやめようと思ったローだった。
ランチを食べながら、彼女は午後はここに行きたい、あれが見たいと地図を広げて話していた。ローは「好きにしろ」と返した。特に行きたい場所はない。彼女が見たいものを見ればいい。そういうつもりで言ったのだが、如何せん顔が怖い。言葉が足りない。「大丈夫ですか?」
「何が」
「あっ、その、ローさん、楽しいかなって」
「……」
「無理やり連れてきちゃったみたいなものですし、私ばっかりはしゃいじゃって。すいません、気がつかなくて」
もう随分回ったし、帰りましょうかと彼女が言う。ローは自分がどれだけ『楽しそうな顔』ができていないか知らなかった。なにせ女とキャッキャウフフと出かけたことがない。
動物園が30歳の男を連れまわすのに、適切な場所かどうかは置いておいて、不快な感情にはなっていなかったのは確かだ。本当に。大昔、もう名前も顔も忘れたような女と出かけさせられたこともあったが、その時に感じた嫌な気はしていない。
「猛獣使いのショーが見たいんだろ」
「でも、」
「嫌ならもう帰ってる」
そんな会話をシロクマ館でしていたら『そんなんじゃダメだよ』とシロクマから有難いアドバイスが飛んできそうな言い草ではあったが、彼女はあまり気にならなかったらしい。むしろ、喜んでまたパッと笑顔を咲かせる。
「はい! なんでも操れない動物はいないくらい凄腕らしいです」
「どうだかな」