齢・30歳。誕生日を迎えた、その日。魔法が使えるようになった。

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『30歳まで童貞の男は魔法使いになる』
よくある都市伝説の一つ。一度は耳にしたことがあるし、それは「バカな」と鼻で笑ったこともある。この科学に支えられた令和の時代に、何がどうして『魔法使い』になんてなるのか。そういうのはゲームの中の話だ、と、トラファルガー・ローは思っていた。
 しかし、実際に自分が当事者になるとなれば、話は別である。

 人生で初めて魔法を使ったのは、丁度、自身30回目の誕生日だった。誰にも何も伝えず、やっとの思いで獲得した有給を消費。昼まで惰眠を貪り、起き抜けに、牛乳と買い置きのスープカップを食した。ソファの上で、積み本に手をつけ、気がついたら夕暮れ。勿体無いような気もしたが、まあこんなもんだろうと、出前を漁る。少し前と比べ、よりみどりになったテイクアウトメニューを吟味し、注文。そういえば腹が減ったなと、思ったそのとき。テレビのリモコンが欲しいと思ったが、少し遠くにある。面倒だった。じっと見つめる。
 まさか浮くとは思わずに。

 まず、リモコンは空に浮くのか。答えは否。下から強風でも吹いているならまだしも、冷房すらついていない部屋の中は無風に近い。また、この部屋だけ重力が歪んだ~なんて、バカな話があるわけもなく。

「……は?」

ローが困惑して、情けない声をだす。すると、プッツンと糸が切れたように、リモコンは床に落ちた。

 魔法が使えるようになったと分かったのは、誕生日から一週間が経った頃だった。と言っても、その間に何度か不思議な力を感じていたが、バリバリに理系の道を邁進し、非科学的なものの類一切を小馬鹿にするエリート医師には受け入れ難かった。自分の気が変になったと思う方が、百倍は現実的だからだ。

 自分の目がおかしくなったとか、多忙故に精神を病んだとか、そもそもこれら全部が夢だとか、ありとあらゆる可能性を吟味した結果、自分が「魔法」という力を手に入れたことがわかった。受け入れがたいが、可能性のないものを消して、残ったものが何であれ、真実であることには変わりない。あのホームズも言っている。

 例えば、あのシャーロック・ホームズが――というか、アーサー・コナン・ドイルが――「30を過ぎても、童貞を捨てられなかった男は魔法使いになるんだよ」と言ってくれれば、ローとて信じられたかもしれない。しかし、そんなことは誰も言っていない。だから受け入れられない。実際にそうなっているのだけども。

 ローは仕事の合間を縫って、都市伝説の信ぴょう性や仮説について調査・検討した。空振りに終わったことは言わずもがな。しかし、読みたいと思った本は、勝手に本棚から飛び出し、ローの手元まで浮遊してくる。もう訳がわからない。

「なーんかクマやばくないっすか?」
「……ほっとけ」
「いや、声低っ」

放射線科のペンギンが、いつもより一層濃いクマをこさえたローの顔を見て、ケラケラと笑った。ローは若く優秀な医師だったが、如何せん人当たりが悪いので、友人と呼べる人間は少ない。同僚ですら、業務連絡以外でローに話しかける人間はほぼいない。その数少ない友人1人が、ペンギン。3つ下の後輩であったが馬も合うし、(なぜか)ペンギンもローを慕っている。他に、小児科のシャチとも仲が良い。むしろ、主に2人としか飲みにもいかないし、世間話もしない。本人は別に寂しいと思っていないのでいいのだが。

「なあ」
「なんすか」
「クマって喋れると思うか」
「えっ ローさんの目の下のクマ?」
「ちげえ しろくまだ」
「いや、どっちも喋れませんけど? 冗談じゃないんすか」

そうだよな、知ってた。どうかしていた。ローは深く息を吐いた。この間、兄代わりであるコラソンと、ドフラミンゴ、そのファミリーたちに無理やり引き摺られるようにして、動物園に行ったのだが、そのときに見かけたシロクマが無邪気にローに話しかけてきたのである。

 シロクマが話せないことは、シュガーでも知っていること。しかし、本当に可愛らしい声で、「キャプテーン!」と訳のわからない呼称で呼ばれたのだ。ローは泣きたくなった。シロクマは嫌いじゃないが、別に話したいと願ったことはない。こんなところで自分の潜在的な願いを知りたくはなかった。

「……ローさん、「何も言うな」

ローがそう言うと、まるで『お口チャック』とでも言うように、ペンギンのスルッと閉じられ、お互い目を見合わせて「は?」みたいな顔になった。

「ん? ンンンー!」

ペンギンが何か話そうとしているが、口は開かない。ローは即座にそれが己の魔法であることを理解する。困惑するペンギンをよそに、ローは興味深いという様子でペンギンの口が本当に開かないのか、顔を掴んで上下に引っ張ったりなどした。開かなかった。どうやら本当らしい。

「もう話してもいいぞ」
「ん、んん~っば! はっ? なに今の、」
「じゃあな」
「ちょっと、ローさん!?」

 ローは、しばらく人間と関わるのはやめた方がいいのかもしれないと考えた。自分の願いや思いが、不必要に実現されていけば、いずれ今のような問題が起こるし、誰かに説明しようとしても無駄であることは明白だ。とりあえずは自分の力を把握して、制御できるようになるまで。会話はもとより少ない方だし、ペンギンとシャチの誘いを断れば当面は大丈夫なはずだ。ローは再度息を吐いた。

「あっ、あの、トラファルガー先生」
「あ?」

仕事に気持ちを切り替え、いつものように刺さる視線を軽く流しながら、長い足で廊下を歩いていれば、看護師に話しかけられた。何度か関わったことのある女。名前は胸について名札を見て「そんな名前だったな」と思う程度。こういうところがダメなのだが、本人は知る由もない。

「ちょっと、」
「仕事中だ」
「いいから!」

女に腕を引かれ、廊下の端に連れていかれる。こんなところに呼び出して、なんなのだ。まさか仕事中に告白か?と失礼なことを考える。この間コンマ2秒。

「用件は」
「あの、実はさっき見てしまって、」
「何を」
「だからその、トラファルガー先生が、その…」

じれったい。ローはじれったいことが大嫌いだった。時間は有限である。ただでさえ多忙な仕事なのだ。効率よく仕事をこなさないと何も終わらない。ローは家で過ごす時間も大事にしたいタイプだ。

「話がないなら、もう行くぞ」

どうやって話を切り出そうか、と悩む彼女を前に、付き合う義理もないとローは判断した。医者のくせに血も涙もないので、影では嫉妬に狂った同僚たちから『海賊』と呼ばれている。尚、シャチはそれを知って面白がっている。

「トラファルガー先生って魔法使いなんですか!」

背を向けたローに、彼女が割と大きな声で尋ねた。柄にもなく焦ったローが振り返った瞬間にはもう、彼女の姿は廊下から消えていた。