私は、この偏屈な作家を、どうやら愛しているらしいのだ。

 名古屋での夜を越え、翌日の帰り道も、その後、この町に戻ってからの日常も、以前と何ら変わることはなかった。先生は朝起きて机に向かい、昼を食べて、また机へ向かう。夜は一緒にご飯を食べ、他愛もない話をして、「おやすみなさい」と別れて部屋へ戻る。その後も、先生はおそらく机へ向かっている。

 変わらないことが不満であったわけではない。むしろ変わってしまったら、どうすればいいかわからず困り果てていたはずだ。私たちは、使用人と雇い主という関係でしかなく、それ以上の線を超える勇気を、まだ持たない。恋愛の仕方などとうの昔に忘れてしまった女と、そもそも人の愛し方など知らない作家。また婚期を逃すよと、東京時代の友人の声が聞こえてくるようだった。

 以前と何一つ変わらないまま、夏を迎える私たちの心境の変化に唯一気付いたのは、谷垣さんであった。流石に長いこと先生の担当編集をやっていない。先生の仕事の区切りがつくまでの間、応接室で、私と谷垣さんはよく世間話に花を咲かせたが、その間、彼が何か切り出そうと迷っているのは、数回前から気づいている。彼のタイミングを待とうと思っていたが、そうしていては一生その機会が来ない気がして、少しだけ可哀想になった。

「何かお話ししたいことがあるんじゃないんですか」

 促すようにそう言えば、谷垣さんはハッとして、頭をかく。体の大きな割に繊細で、人に気を遣いやすいこのかたは、とてもいい人だが、それゆえ先生に良いように使われてしまっているのではないかと、いささか心配になった。

「このようなことを聞くのは失礼かとずっと迷っていたんですが、――その、お二人の雰囲気が少し変わったように思いまして、」
「雰囲気ですか」
「はい、以前よりも格段に柔らかくなりました」

 谷垣さんが、そう言うのだからそうなのだろう。この人は、私よりもずっと先生のことを知っている。私はそうでしょうかと言いながら、先生のことを思い描いた。大体が無表情か仏頂面で、テレビで芸人さんを見たときにはバカにしたような笑い顔を浮かべている。雰囲気と言われて思い当たることはない。先生の取っ付きづらい明け透けの不信感と感じなくなったのは、はて。いつのことだっただろうか。

「あの人は、貴女と出会って変わったのだと思います」

 その言葉に迷いはなかった。私たちはいつも変わることを恐れてきたが、そこには恐れもない。谷垣さんの強い視線に、私は己の臆病な心の虫を恥じた。

「それは、いい意味でしょうか」

 作家というのは、常に新しいものを生み出す、ページの一番最終行に立っているものだ。彼には彼の築き上げてきたページがあり、著作があり、世界がある。ファンはそれを楽しみにしているのだ。すんなりと変わってしまうことの重大さを、私はいまいち理解できずにいる。

「俺は、――自分は、嬉しく思います」

 谷垣さんの持つ誠実さは、時として強く私の背中を支えてくれる。その言葉に嘘偽りがなく、真っ直ぐな視線に不安を吹き飛ばされ、私は安心して笑むことができる。自然に溢れたありがとうという言葉が、適当かは知れない。しかし、他の誰でもなく、谷垣さんが先生の変化を肯定してくれるというならば、それで十分なのだ。


 ジリジリと照りつける日差しが、日に日に強くなってきた時分。季節が移り変わる狭間は、得てして体を壊しやすいものである。名古屋の後、ずっと机に向かっていた疲れもあったのかもしれない。先生は出来上がった原稿を谷垣さんに渡すと、そのまま倒れるように布団へ沈み、そのまま丸一日起き上がらなかった。額に触れると焼けるほど熱いが、本人は悪寒でぶるぶる震えている。

 念のために、と谷垣さんに一報入れると、原稿はできていてあとのことは彼方でやってくれるらしく、暫くは体を休めて欲しいと言伝を預かった。言われるまでもなく、風邪っぴきの猫は動けそうにない。

「お医者さんに行きましょうか、お隣さんが車を貸してくださるそうですよ」

 二日寝て、未だ熱の下がらない額に冷たいタオルを乗せて、先生に尋ねた。予想通りではあるが、先生は病院嫌いらしく、何を言っても頷かなかった。かといって寝ている間に先生を引き摺り出すような力が私にあるわけもなく、先生の家に嫌いな医者を呼ぶのも憚られる。結局こうしてタオルを変え、粥を煮て、空気の入れ替えとこまめにする以外、私にできることはない。

 これが仕事といえば仕事なので、先生の看病をするのは決して苦ではなかったが、なにぶん他人の看病なんてとんとやったことのない私である。どうして差し上げるのが最適か分からず、右往左往とする私を、先生は布団の中で愉しんでいるようだ。タオルに、粥に、換気。汗のかいた体を拭くのは、流石に自分でやるからと、濡れたタオルと桶、着替えの用意までは私がやった。他には何かないかと見渡し、引き出しの中にあった薬がもうなくなっていたことを思い出した。他にも冷蔵庫がもうすぐ空になる。買い出しが必要だ。

「先生、私ちょっと駅前に行ってきますから。粥を食べ終えたら寝ておいてくださいね。お布団から出ちゃダメですからね」

 咄嗟に、先生が私の腕を掴んだ。それはいつか、列車の中での出来事と同じであったが、今日の先生は、私を掴む力も振り解けそうなほど弱い。

「どうかしましたか。欲しいものがあれば買ってきます」

 先生は喉が痛いのか、何も言わない。とにかく引き止めたいという意思だけが伝わった。私は半ば浮かせていた腰を再度布団のそばに下ろす。それでも手は離れて行かなかったので、その手を取って、そっと握り直した。風邪の時は、理由もなく心寂しくなる。この心なさそうな冷たい顔の猫にだって、きちんと温い心臓はあり、誰かに手を握ってもらいたい時もあるのだ。

「ご気分はどうですか」
「……悪いな」
「そうでしょうね」

 先生の太い指を撫でる。先生も私の手を握り返した。どうにも素直に生きられない。私も彼も同じだ。しかし、誰かに優しくされたいという欲は一人前に育って、それが時折、顔を出す。詰まるところ、私はこの人に愛されたいのだなと、彼の熱くなった手を握りながら考えた。もう言い訳などできまい。

「……子供の頃も、滅多に風邪をひくことなんかなかったが、たまに風邪をひくと、いつも婆ちゃんがあれこれと世話を焼いてくれた」
「そうなんですか」
「母親は俺のことをあまり見ていなかったから、いつも、婆ちゃんだけが俺を心配していた」

 この人の抱える孤独と悲しみを、もしも私が背負えるのなら喜んで手をあげたけれど、そんなことは神様に願ったってできやしないし、先生自身も望んでいない。言葉を重ね、遠回しに寂しかったのだと零すこの人の手を、どうして振り解くことができるだろう。先生の哀しみごと抱きしめられる長い腕を持たず、すべてを吹き飛ばしてしまう力もない。私は、何もない。だから、ただ手を握っていた。時に手の皺は言葉よりも雄弁に心を伝えてくれるものだから。

「今日は私がいますよ。次風邪を引くときも、その次も」

 薬の代わりにだってならないけれど。風邪だって本当は引いてほしくないけれど。私の歯切れの悪い言葉に、先生が小さく笑った。そこには確かに優しさがある。芽生えた愛も、水をやれば花をつけるのだ。

「……そうだな」