この地で、新たな仕事を求めて早いもので丸一年が過ぎていた。人生に迷い、多少の疲れを感じ、逃げるように東京を出てきた私であったが、どうにもこの田舎暮らしというのが性に合っているらしい。相変わらず、スマートフォンに来る連絡といえば、母と数人の友人だけで、見事にデジタルデトックスにも成功した。毎日家のことをし、先生のために美味い飯を作るだけの生活というのがなかなか楽しく、改めて白石くんには感謝の言葉を伝えたい。
春が来ても、何かめでたいことがあるわけでもなく、日々は単調に過ぎた。日を追うごとに先生との会話が増え、初めてこの家に着いた頃など、一緒に夕飯すら取っていなかったというのに、今ではともに夕飯を取り、テレビを見ながら話す私の他愛もないことを先生がよく聞いてくれる。笑顔も言葉数も少ないが、それでも根底に人間不信を抱えたこの猫と真摯に向き合い一年。よく打ち解けている方だと自負している。生活にも慣れ、先生にも慣れ、東京よりも緩やかな時の流れに身を任せることにも慣れた頃、ようやく川沿いの並木に桜が咲いた。
「山名川の桜並木が満開になったというので見に行こうと思うのですが、先生もよろしければご一緒にいかがですか」
その誘い言葉に、先生が素直に頷いたのには少々驚いたが、それよりも嬉しさが優って、柄にもなく可愛らしいスカートを履いた。そんなことに、先生が気づくはずもないが、こういうことは女の領分であるので、構わない。
玄関には、先程の格好にカーディガンを羽織っただけの先生が、靴に足を突っ込んだまま待っていてくれた。私が「お待たせしました」と声をかけると、先生がのっそりと立ち上がる。私は品のいいパンプスを履いて、その横に並ぶ。粧して先生の隣に立つと、自然に秋のパーティの夜が思い出される。たった一年、されど一年。生きていれば、思い出が増えていくもので、それは得てして暖かい。
家から歩いて15分。山名川は駅とは反対方向で、よく行くスーパーとも違う方角にあるので、あまり足を運ぶ機会がない。ここいらでは桜の名所だと聞いたのは、昨年とっくに桜が散った後のことであった。だから楽しみにしていた。年甲斐もなくはしゃいで、と思うが見ているのは先生だけだ。今更取り繕う必要もない。行く道でコンビニを見つけ、お酒でも買うかと聞けば先生が薄笑いで頷くのでますます嬉しくなって、自分にもレモン酎ハイを買ってしまった。
「これは見事な桜ですね」
東京は目黒川にも劣らぬ美しい薄紅色の景色であった。周りに高い建物がなく、空が広い分、こちらの方が綺麗かもしれない。平日ということもあって人は少なく、すいすいと前へ行く私の後を、半歩遅れて先生が着いてきた。
少し開けたところにベンチを見つけて、先生を誘う。二人並んで腰を下ろし、買った缶チューハイと缶ビールを開けて「乾杯」と小声で囁きながらそれをぶつけた。天気のいい日、外で飲むお酒はいつにも増して五臓六腑に染み渡る。
「すみません、今日は付き合わせてしまって」
「いや。アンタの愉快な顔を見ているのは気持ちがいい」
阿保面を晒しているということかと問えば、先生は少しだけ笑ってお酒を飲んだ。正解は、教えてくれないらしい。私たちは、黙ってお酒を飲んだ。春色の風が二人の間を吹き抜ける。桜吹雪が舞い上がって、川面へと落ちていった。
この桜並木も、先生の話作りの参考になるだろうかと問うてみれば、そういう話は書いたことがないと言われた。確かに先生の硬質な筆致には馴染まないかもしれない。慣れていないだけ、とも言えるが。そもそも社会派サスペンスで時代の最先端を行く作家先生だ。男女が麗かな午後の暇を桜並木の下で過ごすシーンなど、言われてみれば確かにあまり出てこない。
「――ここはいいところですね」
「そんなことを言うもの好きは、アンタくらいだ」
先生は素直になるのが苦手な人ではあったが、その分わかりやすいところも多い。今のその表情は、決して私を馬鹿にしているではなく、嬉し恥ずかしをそっと隠している顔なのだ。先生だって生まれた土地に愛着くらいは湧くのだろう。とりわけ猫は、自由気ままに見えて、自分の棲家を大事にする生き物だ。
確かに何もない土地ではあるが、綺麗な桜並木があり、お酒を買えるコンビニがあり、立派な屋根のついた家がある。そこには先生がいて、こうして時たまの我儘に付き合って、ともに歩んでくれることもある。ここは、良い処だ。
また風が吹いて、桜が舞う。手のひらを空に伸ばすと、今にも崩れそうな薄い花弁が一枚そこに乗った。私はそれを破らぬように閉じ込めて、覗き込む。綺麗な桜色であった。このまま閉じ込めておけないのは惜しいと思ったが、時の流れに沿って生を全うするからこそ、花は美しい。
「桜の花びらが地面に落ちる前に捕まえられたら、願いが叶うそうですよ」
古い記憶を引っ張り出して、そう声を落とせば先生はあまり興味なさそうに「へえ」とだけ言った。こういった情緒的なことには、とんと興味がないことはもう知っている。私は何を願おうかと、思案して、今更他力本願に望むことはないと気づいた。人の世に疲れてここへ流れ着き、そして安寧を経た今、何を望むのか。この生活が続くことを願ったが、それも先生がいれば叶うだろう。
――この人と、できるだけ長く、一緒にいられたら。
思わぬ契機に、転がり出てきた本音に驚きつつも、それは元からそこに存在していたように、心の中にぴったりと嵌った。それは心であったのだ。疑いようもなかった。
「……何を願ったんだ」
そっと手を開いて、花弁を離した私に先生が問う。優しい太陽の匂いに紛れて、「先生の次回作のヒットを」と嘘をついた。しかし、先生はおそらく気づいていた。猫は、私たちよりもよっぽど鼻が利くらしい。だからと言って明かす気もなかったので、私はそのまま最後の一口を飲み干した。過ぎゆく時間は惜しいが、長くここへいて体が冷えてもいけないし、先生にもお仕事がある。帰りましょうかという問いに、先生は黙って立ち上がった。
「さっきの桜の花弁の話、俺も祖母から聞いたことがある」
その日の帰り道、ふと、先生が珍しく家族の話をした。あまり詳しく聞いたことはなかったが、先生がいわゆる妾の子であって、母親と祖父母とともにこちらで暮らしていたそうだ。そして早くに母親が亡くなった、と。
「小さい頃、何をお願いしたんです?」
「さあ。覚えていない」
それが子供らしく、夢に溢れたものであればいいと思ったが、この偏屈で他人不信な幼少時代だ。あまり可愛らしくないことを願ったのかもしれない。散る花の中で、思いでに触れる。彼の肩に乗った花弁に、そっと手を伸ばした。