令和二年、彼女が拙宅に勤め始め、初めての新年を迎えた。日本特有のからりとした冬の空気が、刺すような寒さを含み、益々と家を出るのが憚られる。

 彼女が茨城に越して半年以上が経ち、すっかりこの土地に馴染んだのか、近所のスーパーマーケットから隣駅の業務用販売店まで、勝手知ったる様子で日々の生活を過ごしているように見える。

「先生もたまには外に」と週に一度は外出する彼女に誘われるが、何をおいても寒さの苦手な己には到底難しい話である。なにせ、炬燵に首から下を突っ込み、日の登り下りを待てば飯が出てきて、挙句には、一声かければ目の前に熱いお茶と蜜柑が用意されるのだ。手放せるはずもなかった。

 昨年の冬などは、彼女なしでどう過ごしていたか今となっては思い出せない。こちらに越して三年。二度冬を越したが、家政婦も雇わず、自分で食料を買いに行っていたことは、おおよそ奇跡のように思われた。先日、年末の大掃除で彼女が棚の奥で見つけた袋麺とインスタント味噌汁は、そのころの名残だ。

 彼女と暮らす日々は平穏そのもので、多少のすったもんだはあれど、外で学校帰りの子供がきゃっきゃと過ごす声が家の中まで聞こえてくる程度には静かな日々であった。その静寂は不思議と不愉快なものでも居心地の悪いものでもなく、その理由については今はまだ明言を避けておく。あくまでも、今はまだ。

 さて、そんなある日の午後。ジリリと音を立てたのは家の固定電話。昔の古民家よろしく廊下の真ん中に置かれた古い形の電話を彼女が取りに立ち上がる。彼女が「はい」とそれに出たのと時を同じくして、今度は玄関のチャイムが鳴った。この家にくる人間など谷垣くらいなものだが、今日は来ると連絡が来ていない。さて誰だと一応立ち上がり、名残惜しくも炬燵を這い出る。廊下に行けば、電話口を手で押さえた彼女が回覧板かもしれないと言うので、面倒だが出ることにした。後にするのもそれはそれで面倒だろう。

「はい」

 インターフォンに口を近づける。すぐに「兄様!」と聞き慣れた声がした。不愉快だ。

「兄様! お久しぶりです!」
「……今日は何用で」
「お顔を拝見できると有難いのですが…」

 顔を見なくとも、キュルルと犬のような情けない表情が目に浮かぶ。まさか突き返すわけにもいかず、相手にも聞こえるように大きなため息を吐きながら、門のロックを解除する。コツコツと石畳を渡ってくる靴音は、どうしてこうも嫌な気持ちになるのか。先ほどまで噛み締めていた、平穏が嘘のように流れ去ってゆく。すぐそこの玄関で、再度ピンポーンと甲高い音が鳴る。サンダルをつっかけ、扉を開ければ、人好きのする爽やかな笑顔がすぐに目に飛び込んできた。

「お久しぶりです!」
「……どーも」

 敷居は跨がせぬ。強い意志があった。「用件は」と再度尋ねれば、それには答えず、勇作が元気そうで何よりだと己の手をとる。何もかも不愉快だった。逃げるようにその手を離しても、まるで気にしていないという顔で、勇作がニコニコとしている。そこで湧き上がってくる感情は、嫌悪か恐怖か。両方と言うのが早い。さっさと用件を済ませて帰って欲しいと願っても、思い通りに行かないのがこの男の厄介なところである。勇作と対照的な仏頂面を浮かべた尾形の背後から、彼女がひょっこりと顔を出す。

「お客様でしたか、」
「ああ、すぐ帰られるから気にしなくていい」
「初めまして、花沢勇作と申します。あの、」

 言葉に詰まった勇作を見て、彼女がぺこりと頭を下げ、名を名乗った。家政婦という響きに明らかに、「ああ」と反応したのは故意か無意識か。それすらも分からない。

「こんなところでは冷えますし、中に入られますか」

必然であった。しかし、――最悪だ。これは声に出ていないといいのだが。

 彼女が茶を入れている間に、応接間で向き直った勇作が、また明るく笑いながら、彼女のことを尋ねた。いつから働いておられるのか、ここに住まわれているのか、二人暮らしで不便はないか。どうしたってそこまで彼女に興味があるのか。尾形はまずますとその心の中の不愉快な気持ちを煮詰めながら、簡易にその質問に答えてゆく。どれも心無い適当なものだったが、勇作は満足したように笑っている。

「今日は本当に何用でこのような場所まで」
「はい。もうすぐ兄様の誕生日が近いということで、こちらを」
「…毎年要りませんと言っているはずですが」
「捨てられても良いのです。これは私の気持ちですから」
「はあ」

 高そうなラッピングボックスを見遣って、尾形は小さく息を吐いた。何もかもが要らないお世話であるし、嬉しくもない。そっとしておいてくれる方がいい。目の前の男にはもう何を言っても無駄であることは知っているが。

「では、私はこのあたりで失礼します。兄様、お邪魔致しました」


「あれ、もう帰られたんですか」

 お茶を持って応接間に入れば、そこには先生ひとりが座っていた。先程まで先生の向かいに座っていた好青年はどこにもない。私の問いに、「ああ」と答えた先生の声は暗い。あまり好いていない人なのだろうか。今日は朝から比較的気分の良さそうだったのに、今じゃすっかり仕事に行き詰まっている時と同じ雰囲気だ。

「お茶飲まれますか」
「アンタも飲めばいいだろう」

 最近ではそこまで珍しいわけでもないが、こうして分かり易く、向かい合うように言われることはやはりそこまで多くない。客用に、と入れた高い茶葉は香りが良く、やっぱりいいなと思った。ふうふうと茶を冷ます猫舌の彼に、「彼の方は」とそっと問う。座れと言われたのだから、聞いてもいいのだろう。単刀直入に、先程訪ねてきた男性のことを聞いた。先生は、いつにも増して顔を顰めている。

「弟だ」
「あら、そうだったんですか」
「母親が違う」

 なるほどと言いながら、彼の顔を必死に頭の中で巡らせる。言われてみれば、目のあたりが似ていたかもしれない。じっと見る機会もなく、あくまで、かもしれない程度の印象だが。それにしても、母親が違うだけでここまで人の持つ雰囲気は変わるのか。言われなければ、まず、兄弟だとは思うまい。

「俺は妾の子。あの人は本妻の子。それなのに、やけに気にかけてくるのだ。ずっと兄弟がいなかったから、とか何とか言って」

「へえ、確かに。先生に会われて嬉しそうにされてましたね」
「煩わしい」

 切り捨てるような物言いが、どこまで先生らしくて笑ってしまった。そう言われれば、一番最初この家に来た頃『ヤマネコ先生』の話をした時、何か良からぬ爆弾を踏んでしまったと思ったことがあった。妾の子。なるほど、人間不信も、弟とは似ても似つかぬ捻くれっぷりも、皮肉にも納得してしまう。まして、関わりたくないであろう弟君があの様子では、ますます拗らせてしまうだろう。双方に失礼なのは承知の上で、わずかばかり同情した。

「そうでしたか」
「それだけか」
「いえ、先生と違って私はあまり語彙力がないもので」

 私の顔をじっと見詰めて、先生がはあと息を吐く。先程弟君に向かって吐いていたそれよりは幾分か優しいように思う。気のせいだと言われてしまえば、それまでだが、煩わしい、鬱陶しいと思われていない自覚はあるのだ。

「此方の高そうな包みは?」
「誕生日の贈り物だ」
「誕生日って先生のですか」

私の問いに、先生はハアと呆れた顔で「他に誰がいる」と尋ねた。まさに。日付を聞けば、1月22日と言われ、やれもう時間がない。次の金曜日に御誕生日だなんて、何も聞いていなかった話だ。しかし、もしかしたら最初に渡された資料に書いていたかもしれないと、努めて驚いた顔はしないようにした。人付き合いで大切なことは、安安と動揺しないことである。

 先生は、高そうな紺の包みを此方に手で押しやった。やると、経った一言に彼の弟君に対する嫌悪が見て取れた。確かに、自分が嫌いな人からのプレゼントは喜ばしいものではない。私はそれを受け取って、開けてもいいかと問うた。好きにしろと返され、二人の会話はこうして終わりを告げた。

「買い物に行きますけど、何か御用はありますか」
「ない」

 いつの間にやら茶を飲み干して、のんびりとした足取りで、猫が炬燵へ戻っていった。