時は飛んで、長月。きっかけは一本の電話であった。
茨城に越してきてからというもの、連絡手段としての用をほとんど為していない私のスマートフォンが鳴り響いた。あまりに鳴らないもので、マナーモードが解除されていたことにもその時まで気付かなかったレベルである。ちょうどその時、私は台所で夕飯の支度をしていて、たまたま居間で新聞を読んでいた先生が、それに気づき、私のところまで持ってきてくださったのだ。
画面に表示された相手は、久しぶりに見る母の名前であった。特に疎遠になっているわけでもなかったが、そこまでマメに連絡を取り合うほどでもなく。何のようだと思いながら、コンロの火を消す。台所に来たまま、ぼうっと立ち尽くし、私の手元を覗いていた先生に、ぺこりと頭を下げ、廊下へと出た。もしかして、新しい原稿のネタでも探していたのだろうか。だとしたら、申し訳ない。最後にコクリと頷いた猫のような横顔を思い描きながら、少々胸が痛んだ。
「はい、もしもし」
電話口の母は、特に変わりもないようで、いたって普通の調子であった。私が茨城の作家先生のもとで働いているということは、白石くんを除けば、父と母しか知らない。体はどうかと世間話から始まり、仕事の調子はと想定内の質問をされた。先生の名前を言えば、母は知らなかったようで、今度本を買ってみると話していたので、私が読むよりも前に読み終えてしまうかもしれない。まあ、それはよい。わざわざ電話をかけてきた用件は何かと問えば、母は過去、幼馴染であった彼の名前を出した。
「葵くんがね、体壊して入院してるらしくてね。アンタ、東京帰ってくる用事ないの? お見舞いも、あたしが行くよりいいでしょう」
「あー、うん。でも住み込みだし、しばらく帰る予定ないかも」
努めて、平坦な声だった。母はそれを疑いもせず、「そうかい」と言って話を変える。あれやこれやと一方的に話をしたのち、またねを交わして電話を切った。一見普通の世間話ではあるが、あまり聞きたくない名前があった。
葵。姓を岩峰という。私の小学生時代からの幼馴染でもあり、かつての恋人でもある。特に物珍しい話でもないが、長年思いを寄せてくれていたという彼の気持ちに答え、大学4年のとき、恋人になった。社会人になった後も、順調にやっていたと思っていたが、小さな歪みが元となり、結局二人の関係は破綻してしまったのだ。
スマートフォンをポケットに仕舞い、台所へと戻る。居間ではなく、ダイニングテーブルのところに先生が座っていたので、一旦お茶を入れることにした。すると、先生が珍しくチラチラとこちらに視線を向けてくる。はて、なんだろうか。何か、と問えばおずおずと先生が「さっきの電話」と切り出してきた。電話の内容が聞こえてしまったのだろう。うるさくてすみません。謝りながら湯呑みを出すと、先生は飲もうと持ち上げたが、熱さにピクリと肩を跳ねさせていた。
「東京に帰るなら、休みを取っても構わん」
「ああ、そのことでしたか。いいんです、…大した用事でもありませんので」
本当に大した用ではない。母は幼馴染だからと葵の見舞いを私に行かせたかったのだろう。葵と恋人になったことは互いの両親には隠していた。正月に揶揄われるのはうんざりだったり、結婚だとか、より具体的な関係になれば言えばいい、と。二人の関係が終わった時には、その選択は間違っていなかったと安堵したが、今となってはやはり言っておけばよかったかと薄っすら思い始めていた。葵だって、別れた恋人が見舞いに来るのはさぞ厭だろう。
表情、声のトーン、動作スピード。何を取って判断したのか知らないが、とっさに隠したがった私の本音を、先生は見逃してはくれなかった。すっと向けられた視線が、私の本意を探り、心の底を薄く撫でる。先生は茶を啜りながら、私から目をそむけない。まるで獲物を取られまいとする猫のようだ。たったひと時とはいえ、彼がこのような執着を他人に向けることがあるとは。いささか驚いた。
「なんだ? 用事というのは」
「…友人の見舞いですよ。いわゆる幼馴染というんでしょうか、ともかく母が大げさに心配して見舞いに行ってやれと」
私は、彼に突き立てられたその鋭い爪から逃れようと、言葉を並べた。何も嘘ではない。全て真実。しかし、それだけではないことを、どうしてか、この人にはわかってしまうらしいのだ。先生は、ようやく私から目をそむけたと思えば、すでに温くなった茶を啜りながら、スエットの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、スッスと指を動かした。して、その間おおよそ五分。判決を言い渡される被告人のごとく、息を殺して眼前に座っていた私に、3日後の東京行きを言い渡したのだ。