小気味のいい包丁が何かを刻む音。得てしてそれが好きだった。自分のものでも、誰かのものでも。私はサラダに使うようの野菜を刻みながら、火にかけていたスープを混ぜる。料理は苦手。そもそも家事が嫌い。学生の頃からそんな怠惰なことばかり言ってきたが、長い一人暮らしを経て今はそうとも言えない。家事は好きか嫌いかで言えば嫌いだけど、料理はそうでもなくなってきた。
玄関の鍵が開く音。彼が帰ってきた。ガサガサ靴を脱ぐ音がする。今の恋人は、靴を脱いで、つま先が別の方向を向いているのを気にしない人だった。もちろん私も気にしない。あっちこっちに脱ぎ捨てなければそれでいいと思った。彼は「ただいま」と言って、私が「おかえり」と返す。よくできたスープとチーズ焼きの匂いに、彼が「いい匂いだね」と笑ってくれる瞬間が、私の料理への苦手意識を変えてくれた気がする。
「名前、封筒届いてたよ」
「封筒?」
「降谷って人から。ほら」
フルヤ。その名前が最初ピンと来なかったけれど、それがつい数ヶ月前に知ったあの人の名前だと思い当たり、彼から封筒を受け取る。茶封筒に私の名前と住所、降谷くんの名前だけがあった。彼から何か送られて来ることに思い当たる節はない。住所を教えたこともなかったと思うが、それについては深く考えないことにした。
「写真?」
封筒から一枚取り出された写真を、彼が覗き込む。手紙もなく写真が一枚だけ入っていた。私とヒロが映った写真だった。それは、私たちがバイトを辞める時、私のスマートフォンで一緒に撮った写真だ。店の前で、私とヒロが、もらったまかないの入ったビニール袋を手に笑っている。それも、あの夜に、彼に消されてしまった記憶の一つだった。きっと事情があって写真を残せなかった彼が、忘れていたのか、それともわざと残したのか。いずれにしても、今の私にとってそれはこの世で唯一の諸伏景光という男の記憶だった。
「学生時代のバイト辞めた時の写真」
「へえ。隣のこのイケメンはバイト仲間?」
「……元彼だよ」
私の答えを聞いて、彼が少しだけ嫌そうな顔をする。でも、事実だった。だから仕方ない。ヒロは、私の恋人だった。彼のことを世界で一番愛していた時間があった。その事実だけは何があっても否定できないのだから。
たった一枚。送られた写真に映る笑顔を指でなぞった。幸せしか知らなかった頃の私たちがいた。23歳だった私と22歳だったヒロはまだ若く、互いのことを好きだという気持ちだけでこれからも生きていけるような気がしていた。少なくとも、私はそう思っていた。そんなことも思い出す。とっくに忘れたはずだったのに。
「なんか目赤くない? 泣いた?」
「ううん。玉ねぎ、切ってたから」
「代わる?」
「いい、ありがとね。もうすぐできるからお風呂入れば?」
私は写真をテーブルに置いて、彼をお風呂へ見送る。キッチンに立ち、切れた野菜を見ると、嫌でもヒロのことが浮かんだ。器用に野菜を切って、ドレッシングまで手作りする料理上手だった彼のことを。私が隣でパイナップルを切るのを笑いながら見ていたかつての恋人のことを。キッチンで交わした一つ一つのキスも、あの夜とともに失くしたはずだった。でも、そうではなかった。彼のことを大切に思う気持ちが残っている。好きだという気持ちは自然に消えてしまうものではなかった。そのことが分かった今、それだけでよかった。彼は私の中の一つの記憶だ。抱いて、前に進んでいく。
お腹を空かせた彼が、シャワーだけ済ませてすぐに出てきてしまう。少しだけ泣いた。彼が出てくる前に、赤い目が治るように少しだけ。ヒロのことを思う。彼が静かな場所で今、幸せであるように祈った。
▲大学4年生。私が大学5年生の時。ヒロが初めて車を買った。中古の安い車だった。それでも当時、学生だった私たちには大変なことだった。納車されて5日後。彼は「初めて乗せるのは名前って決めてたから」と言って、私を家まで迎えに来た。助手席に乗って、持ってきたCDを流して、海を目指した。別に行きたいわけではなかったけれど、ドライブって言ったら海に行くんだと、私は思い込んでいた。
ヒロは笑いながらハンドルを握り海を目指した。時々「これなんて曲?」って聞きながら彼は進んだ。ふたりで話をしながら行けば、海に着くのはあっという間だった。それは確か春から梅雨に入る間の季節だった。海水浴客は当然いなくて、ちらほらサーフィンをしている人を見かけた。私たちはガラガラの駐車場に車を停めて、泳ぐわけでもないのに砂浜へ降りた。風が冷たい。意外と冷えるね。そんなことを言った気がする。
「おいで」
ヒロが、両手を広げた。少しだけ恥ずかしかった。
でも優しそうに笑うヒロを見たら、そんなこともどうでも良くなって、私は彼の広げられた両腕の中に体をおさめた。サーファーたちは海と波に夢中で、犬の散歩をする人は駆け出す犬に引き摺られていた。だから誰も私たちふたりに気を留めない。彼の腕の中では、肌寒かった数分前のことは忘れていた。頭の上にヒロの顎が乗る。ぴったりと体を寄せれば、ヒロの心臓の音が聞こえた。生きてるんだなと思った。恋をしているんだ、とも。
それから私たちは車に戻って、もう少し海辺の道を進んだ。そうしたら高速道路からよく見えるお城みたいな趣味の悪い建物が見えて、私は「入ろうよ」と言った。そういう気分だった。興味もあった。ヒロは少し驚いた顔をして、少し悩んで私を見る。「いいの?」。彼が尋ねた。誘われたことに、まんざらでもなさそうな顔をして。
「私が誘ったのに、いいのって聞くの?」
ヒロは笑った。車はラブホテルの5台しか停められない駐車場の一番端っこに停めた。駐車場には、私たちを含めてもう4台分も停まっていた。私たちはラブホテルに入って順番にシャワーを浴びて、当然のようにセックスをした。替えの下着も洋服もなかったけれど、構わなかった。
私たちはひとしきりコトを終え、ランドリーで下着と上の服を洗った。1日ドライブをして少し汗をかいたから。待つ間、すぐに脱げちゃうバスローブを着て、ベッドに寝っ転がった。お腹が空いていたけれど頼むのも買いに行くのも億劫だから我慢した。手持ち無沙汰のヒロの手が、私の髪を掬う。サラサラだねって言いながら。彼と付き合い始めて、肌にも髪にも気を遣うようになったことは、まだバレていなかった。「私、初めてかも。こういうところきた」
「そうなの?」
「うん。ヒロは、」
どうなのって聞こうとして、口をつぐむ。途中でやめて、「やっぱり訊かない」と言った。
「俺も初めてだよ」
「うそ」
「本当だって」
それが嘘でも本当でもどちらでもよかった。過去の話はそんなに聞きたくない。その時、彼が私を好きだという事実だけで幸せなのだ。あえて水を差す必要もなかった。私は「信じる」って言って、ヒロがうんと頷いた。ヒロは初めての彼氏ではなかったけれど、他人のことを大好きだと思ったのはヒロが初めてだった。それも言おうとして辞める。冷たい人間だったのかと思われそうな気がした。それにヒロに、私より前にとても好きな人がいたなんて聞いたら、きっとみっともなく妬いてしまうから。
「ねえ、海に日が昇るところ見たことある?」
「あーないかも」
「それ見て帰ろうよ、せっかくだし」
「いいね」
その頃の私たちにとって。夜は短かった。暗いところよりも明るいところにいる時間が長かった。だからたくさん遊んだし、たくさん愛し合うことができた。私は綺麗な彼の背中のラインを目でなぞってから瞼を下ろす。私たちの夜明けは、すぐそこにあった。
「脇役曰く」〆戻る BGM
第一部 「バイ・マイ・サイ」RADWIMPS
第二部 「Photograph」Ed Sheeran