ヒロが亡くなったと知ったのは、彼が私の人生から消えた夜から何年も経った後のことだった。電車で向かいの席に座ったおじさんが広げた新聞紙。ちょうど私の方へ向けられた裏面の小さな記事に、数年ぶりに彼の名前を見た。恥も厭わずじっと目を凝らし、そこに「諸伏景光」と「殉職」の単語を見つけた。捜査中、事故に遭い殉職。書かれていたのはそれだけだった。すぐにスマートフォンを開いて彼の名前を入れて検索しても、同じような事実しか書かれていない。詳細は不明。公表されることはなかった。

 その頃になると、あれだけヒロと私の仲を根掘り葉掘り聞いてきた友人たちは、彼の名前も顔も忘れていた。私の周りにいた誰もが、そのニュースに触れることはなかった。そもそも、新聞の片隅に小さく載るような程度のニュースだ。テレビで報道されることも、ニュースアプリのトップに上がってくることもなかった。私だけが、彼の死を知らされたような気がしていた。諸伏景光という男は、世界からほとんど消えかかっていた。

 それまでの間、一度も彼のことを思い出さなかったかと聞かれれば、答えは否だ。
 未練というのは、ある意味、妬みや恨みよりも厄介な感情であった。彼と二度と会えないと思うほど、彼に会いたいという感情が膨らみ、まだ、私は彼のことを好きで好きで堪らないような気になった。それでも、彼が私の周りから彼に関わる全てを消したおかげで、物理的距離だけではなく、心もいつしか離れていった。残酷だけれど、名前のある関係性を失った男女が迎える結末は、得てして似たようなものだ。どれだけ好きでも、会えなければ忘れてしまう。顔も見られず声も聞こえない人間を愛し続けることは、まだ24歳だった私には難しかった。そして、それは誰にも望まれていないことだったから尚更だった。

 彼の死を知った週の土曜日。卒業以来、初めて学生時代バイトをしていたレストランの入ったビルへ来た。ヒロと出会い、共に働いた場所だ。それは未練からではなかった。でも、それならば何なのだと訊かれると、明確な答えはない。ただ、あのハンバーグが恋しくなった。少しだけ思い出に浸りたい気分だった。誰に責められているわけでもないのに、自分自身にそう言い聞かせる。

 レストランへ行く前に、ビルの裏手、職員用入口のある道路へ行った。バイト終わり、私を待っていたヒロの姿をそこに見る。ガードレールに腰かけて私を待つヒロの姿が大好きだった。そこにいるだけで絵のように格好いい男だった。やっと出てきた私を見つけて、「お疲れ様」というその声が、どんな疲れも吹き飛ばしてくれた。長い時間が、私の記憶の中のヒロを美化してしまったのか。それは現実だったのか。この期に及んでは確かめる術はなかった。

 ヒロと同じようにして、ガードレールにもたれてみる。腰をかけようとしたら腰の高さが足りなかった。ああ、足。長かったもん。モデルなのかなと、道を歩けば誰かが囁く。デート中、私たちに向けられるその視線や声が、恥ずかしくも誇らしくもあった。

「——名前、さん?」

 目の前で、星のような金色の髪が風に吹かれている。髪色とは対照的な褐色の肌に、均整のとれた顔立ち。「ゼロ」。ヒロが呼んでいた彼のあだ名が口をつく。付け加えるみたいに「……くん」と添えれば、ゼロくんは困ったような驚いたような中途半端な顔で「お久しぶりです」と言った。最後に会ったのは、彼がまだヒロと警察学校の学生だった頃の話だ。大人の男になっていた。姿形はほとんど変わっていなかったけれど、ほとんど何もかもが変わったような感覚を、彼は私に与えた。

「ゼロくん、どうしてここに」
「たまたま通りかかったんです。そしたら見覚えのある顔を見かけたので、つい」
「そっか、よく覚えてたね」

 彼が曖昧な愛想笑いでこの場を去る口実を考えていると分かった時、咄嗟に彼をこの後のディナーへ誘っていた。ビルの上の方を指し、「あそこで」と。ゼロくんは目を丸くした後、断る理由を見つけられず「ぜひ」と言った。今夜は一人、思い出に浸ろうと思っていたけれど、もしこの夜のひと時を誰かと過ごすなら彼が適任であるような気がした。私よりも何倍も長い時間、ヒロと一緒にいたゼロくんだから。

「急に誘っちゃってごめんね、仕事とか大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ。今は大きな事件が片付いて、少し余裕があるんです」

 彼を誘って到着したレストランは、私たちが働いていた頃と変わっていないように見えた。もちろん当時一緒に働いていたスタッフは一人もいなかったけれど、テーブルの形もそこから見える夜景も、時代遅れの手書きのオーダー票もそのままだった。私はオリジナルソースのかかった定番を頼み、ゼロくんは和風ハンバーグを頼んだ。

「……ここでね、ヒロと出会ったの」

 注文したドリンクが先に運ばれてきて、脈略なく会話を始めたのは私。ゼロくんはワイングラスに伸ばしかけた手を止めて私の方へ視線を寄越した。わずかな緊張感が、鉄板でお肉の焼ける音にかき消される。ちょうどゼロくんの後ろ側。キッチンからホールへできた料理を出す棚の隙間から、私はヒロを見ていた。サラダを盛り付ける彼に、「お願いします」と呼ばれるのを待っていた。閑古鳥が鳴いた日にはカウンター越しに取り止めのない話をした。デートに誘われたこともあった。それが、それだけがここでの記憶だった。

「見たよ、新聞」
「だからここへ?」
「ん、そうかもね」

 それぞれの前に木製の敷台が置かれ、そこに熱々の鉄板が乗っかる。丸い1人用の鉄板を2つ、トレンチに乗せて器用に運んできた店員さんはかつての私だ。ヒロはそれを見て「重くないんですか」と訊いてきたこともあった。重いに決まっていた。でも慣れれば問題ない。今も同じだ。ヒロが消えた後の私の人生なんて、悲しいに決まっている。でも慣れれば大丈夫。だから、今抱える痛みにもいつか慣れる。そうして、いつか何も思わなくなる日が来る。望んでも、望まなくても。

「熱いうちに食べよう、美味しいよ」
「いただきます」
「はい、いただきます」

 ゼロくんが「美味しい」と言った。嬉しかった。私が作ったわけでもないのに、認められた気がした。彼の言葉を聞いて、店長らしき男の人が嬉しそうな顔をする。それは私の知っている店長ではなかった。私とヒロに最後に「これからも仲良くね」と言ってくれたあの人は今どこにいるだろう。ヒロが亡くなったことに気づかず生きているのだろうか。そう考えると、それがひどく羨ましいことのように思えた。

「……ゼロくんは、なんでゼロって呼ばれてたの」
「降谷零って言うんです。レイが漢数字の零」
「だからゼロ?」
「はい」
「かわいいね」

 ゼロとヒロ。横に並べるとしっくり来た。字面だけでも親友っぽい。
 取るにたらない会話をして、私たちは食事をすすめた。降谷くんは物言いたげな視線をこちらへ向けたが、それに聞いていいよと言う勇気はなくて気づかないふりをした。あの頃、ヒロに大して持っていた陳腐なプライドはもうなくなっていた。あの日、彼と共に消滅したのだ。

「ヒロのこと、訊かないんですね」

 私に許可を取るまでもなく降谷くんがそう言った。食事はほとんど終わり、残り一欠片になったハンバーグが黒い鉄板の上に残されている。「きけないよ」。私はそれにぶすりとフォークを刺して口へ運ぶ。もう冷めている。私の中の心の一部分もこのハンバーグや鉄板と同じように、かつて一つの恋に燃え上がり、そしてそのまま燃え尽きた。冷め切って灰になった。心のかたちは歪になったけれど、構わない。私の中の欠けた心がヒロだった。あの頃、私は何も疑わず、誰よりも何よりも、彼を愛していた。

「もう、消えちゃったから」

 私の人生から。彼の生きていくはずだった道から。いつかどこかで会えるかもしれないと思っていた世界から。彼が守りたかった何かの前から。諸伏景光は、消えてしまったのだ。