タクシーが、家の前へと到着する。私がカバンから財布を取り出すよりも早く、ヒロがポケットから一万円札を一枚出して、お釣りもそのままポケットに入れた。私が「あっ」と何にもならない声を出すと、彼は「降りよう」と言う。当然のように、空白だった半年間が嘘のように、彼は私と共にタクシーを降りた。その瞬間の私たちは紛れもなく恋人であったし、私はやっぱりヒロのことが好きだと思った。彼に微笑みかけられるだけで胸が苦しくなるこの気持ちが、恋でないなら一体なんだと言うのか。
「よかったの? タクシー」
すでに電車はない。ヒロが今、どこに住んでいるかは知らないが近所なんてこともないだろう。彼と共にあることを喜んでいるくせに、また私の中の取るに足らないプライドみたいなものが顔を出して、行ってしまったタクシーを惜しむふりをした。ヒロは小さく頷く。「せっかく会えたから」。諸伏景光という男は、私が欲しいというタイミングで欲しいと思える言葉を与えることのできる男だった。私の捨てきれないプライドや、隠しきれない寂しさが鯨のように彼の言葉に飲み込まれる。いいよと言われている気がした。それでもいいよ、と。
「遅いし、泊まっていく?」
「いいの?」
「——いいよ」
それでいて、彼は必ず私に「いいよ」と言わせてくれる。私は彼のことを大概甘やかしていたけれど、その実、私も彼に甘やかされていた。彼はそういうことを、そういう風に見えないようにやるのが上手な男だった。
大学時代よりも少しだけ広くなったアパート。駅から歩いて7分の1K。家賃7万4千円。そこに彼がいた。ヒロは玄関で靴を揃えて脱いで、小さく「お邪魔します」と言った。私は床に脱ぎっぱなしにしたパジャマを拾って、洗濯機に入れる。その横着さを、ヒロが笑う。ヒロの笑い声を聞くのも随分久しぶりな気がした。部屋は綺麗とも汚いとも言えない絶妙な状態だ。あと3日遅ければそこは汚かっただろうし、2日早ければ綺麗だった。その部屋の真ん中にいる恋人は、なぜかとても綺麗なものみたいに見えた。「水入れてくるね」
冷蔵庫を開ける。半分になったミネラルウォーター。ああ買いに行かなくちゃって思いながらそれをコップに入れる。そうしたらそれを持っていく前に、ヒロがキッチンに入ってきて少しはにかむ。私も同じようにした。彼が私の手からコップをそっと取る。でもそれは彼の口へ運ばれることもなく台の上に戻されて、コップの代わりに彼の手を握らされる。唇の端っこにヒロの唇が当たった。半年ぶりにキスをした。ふたりの唇が触れた瞬間に、やっと息ができたみたいに、私たちは離れることを忘れて、互いに夢中になった。
ヒロが一歩進む。私が一歩下がる。私の背中が冷蔵庫に当たってもまだキスは続いた。ヒロの柔らかい髪の中に入れた手が、まだその頭の形を覚えていたことにひどく安心している。彼の手が、私の着ていたニットとブラウスをたくし上げる。肌に触れる。お酒のせいか、彼のせいか。熱くなっているような気がして恥ずかしかった。でもそれを止めて欲しくなくて、私は彼の首に腕を回した。
深夜3時。彼はそれから起こる行為について「いいの?」とは聞かなかった。
私たちはやっとキッチンを出て、ベッドの上で服を脱いだ。一枚一枚、裸へ近づいていくたびに、ふたりの最後に近づいている気がしていた。私を見つめるヒロの目は優しくて、まだ私を好きだと語るけれど、でもそれだけではなかった。私たちは、もうそれだけではいられない。恋だけをすることはできない。ベッドにダブンと倒れ込む。ヒロの指が、私の目の下のところを撫でる。
「……泣いた?」
その眉と眉の間に寄った皺が、心底愛おしい。マスカラが落ちて黒ずんだ目元を撫でる、ヒロの指を食べてしまいたいほど。まだ、私は彼のことが大好きだった。なんでだろう。会えない時間が長くなって、私たちは互いのことを考える時間も減ったのに、「好き」という気持ちがなくなってしまわないのはなんでだろう。
「酔って目擦っただけだよ」
「そう?」
「うん」
「そっか」
キスひとつ。彼の見慣れないひげを撫でる。犬みたいな顔でヒロがくすぐったそうにした。「似合う?」。どうだろう。なくてもいいね。あってもいいけど。つまるところヒロならなんでもいいんだけど。迷って「似合うよ」と言った。嘘ではなかった。本心とも少し違った。でも彼を否定するような言葉は出てこない。
ヒロの顎にひげが生えて、私の髪が伸びる。
学生時代とは変わっていくことを受け入れなければ、決まりきった運命にも抗えると、本気で思っていた。愚かだった。愚かでも構わなかった。愚かなまま、彼と愛し合っていられるならそれでよかった。でも、何よりも、彼に触れられている瞬間に、そんなことを考えているということがもう何もかも手遅れだと示していた。たくさん愛し合い、藍色の空が徐々にオレンジ色と混じり合う。私は彼の腕の中で眠った。ひだまりのような温かさの中で、いつまでも彼といる夢を見た。
朝、目が覚めた時、それは既に朝ではなかった。太陽は隣のビルよりも高い位置まで昇り、休日の朝のワイドショーは終わりバラエティの週末総集編が始まっていた。隣に、ヒロの姿はない。綺麗でも汚くもない自分の部屋が、いつもよりも広く感じる。彼の匂いも、彼の体温も、何もない。
「……あれ」
ふとした違和感。すぐに確信に変わる。私のベッドサイドの壁にかけていたコルクボード。ピン留めしていたヒロとの写真が消えている。昨日まで確かにあった。だとしたら、それを持ち去った人間は一人しかいない。嫌な予感は、当たらなくていい時ばかり当たるもので、床に置きっぱなしにしたカバンに入ったままのスマートフォン。そこからも写真は消えていた。ふたりで行った場所、ご丁寧に私一人が映っている写真を残して。写真もトーク履歴も連絡先も消えてしまった。諸伏景光という1人の人間が、私の人生から消えてしまった。それを知った朝。予感は絶望に変わる。悲しみは、まだ追いついて来ない。
ベッドから落ちる。冷えたフローリングの床。感覚はぜんぶ本物。これは夢なんかじゃない。むしろ、昨日の晩の方がよっぽど夢のようだった。何も言わずに消えた恋人。それは確かに存在していたのだろうか。彼の影を追うように歩く。玄関に、彼が揃えておいた靴はない。洗面所には回されないままの洗濯機。昨日突っ込んだ洗濯物はまだあった。
「……っ、」
キッチンの、台に置かれたコップ。中には水が入っている。昨日、私がヒロのために入れた水。結局彼は口をつけなかったけど。それに見覚えのないラップがかけられている。こんな丁寧なこと、酔った自分がするはずがない。ヒロだ。彼の指が、ラップをちぎる。それをこんなに鮮明に想像できる。やっぱり昨日のヒロも、私の記憶の中にあるヒロも、何も幻想ではなかったのだ。彼は確かに存在していた。
[ごめん 別れよう]
コップに添えられたメモ帳が一枚。ヒロの字だ。バイト時代ヘルプでホールに出てきた時のオーダー票、フライパンセットを買った時の領収書、レストランのウェイティングリスト。どれとも重なる、彼の字だった。彼がどんな気持ちで、何を考えて、これを残して消えたのか。私には一生かかっても分からないのだと思う。
ただ一枚、その紙を握って泣いた。ふたりの進んだ道の先に、終わりしかなかったのだとしたら、——それをヒロが分かっていたのだとしたら、せめて彼の目を見て「いいよ」と言いたかった。別れてもいいよ、と言ってあげたかった。ヒロひとりが寂しい罪悪感を抱えて生きることがないように。