女というのは水と食べ物がなくても他人の恋愛話さえあれば丸一ヶ月は生き永らえることができるような不思議な生き物である。否、それを過大な主語であると反論する人がいるなら、少なくとも私の友人はその類であるとだけ言っておく。流行りを煮詰めたみたいな格好で本日3杯目の生ビールを注文した彼女は、綺麗に巻かれた髪を無造作にかき上げながら私にポテトフライの先っぽを向けた。さながら学園ドラマの教師のようだった。彼女はこの世の恋愛の水も甘いも知り尽くしたような風をしているが、その実、恋愛経験は私とどんぐりの背比べである。見た目だけが一丁前なのだ。

 彼女は会うたびに根掘り葉掘り私の恋愛話を聞いてきた。出会いからデートの場所、初めてキスをしたタイミング。一緒に見た映画まで。もう彼女が私と彼の恋愛において知らないことなどないのではないかと、本気で思えるほどに。私は彼女の半分ほどのペースでお酒を舐めながら彼女の質問に答え続けた。恥ずかしくはなかったが、言いたくもなかった。二人だけの秘密にしておきたいという意地らしさもなく、これを聞いて何が楽しいかもよく分からない。私は他人の恋愛でお腹は膨れないタイプである。私たちの恋愛について洗いざらい告白したのち、彼女は核心に迫るような顔でまたポテトを向けた。高校時代、居眠りがバレて先生にチョークで指されるよりもはるかに緊張感があった。

「最後に連絡来たのいつ?」

 冗談のようなやり取りのくせに、それはまさに核心に近い質問だった。
 これまで聞かれたことにぽんぽんと答えていた私が、急に答えに詰まった。彼女は見逃さない。自白を強要された冤罪とはきっとこうして生まれる。これは、冤罪でもなんでもなく単なる事実に過ぎないのだが。しかし、それは何故か私が隠したいと思っていたことだったから。否。隠したいのではなく、——目を背けたかったこと。

「いつ、だろう。……半年くらい前かな」
「は? 半年? 半月じゃなくて?」

 私が曖昧に笑いながら頷けば、今度は彼女が驚きで絶句する番だった。履歴を一つ一つなぞるように記憶を辿る。どこにもヒロの名前は出てこない。半年、たしか私が「元気?」って聞いたのが最後。彼が「元気だよ」と返したっきり。学校を卒業し警察官になってからのヒロは、これまでのことがまるで嘘のように忙しくなり、連絡が取れなくなった。連絡したのは半年前。顔を合わせたのは、彼の警察学校卒業を祝った一年前。彼の顔や髪が今、どうなっているか想像もつかない。変わらないような気もしたし、まるで別人のようになってしまったような気もした。私たちが、まだ恋人という関係でつながっているかも定かではない。そう思っているのは私だけだとしても不思議ではなかった。

「向こうから連絡全然ないってこと?」
「うん。忙しいみたい」
「それって、自然消滅じゃないの?」

 何も、言い返すことはできなかった。きっと世間ではそういうのだろうと思ったし、もしかしたらヒロもそう思っているかもしれなかったから。彼に初めて好きだと言われた時、名前のついた関係性を求めたのは、彼ではなく私の方だった。だからそれにこだわっているのは私だけかもしれないという不安は、当初から薄っすらと存在していたのだ。強く眩しい光に霞んで、見えづらかっただけで。

「そうかもしれないね。分かんないけど」

 分かりたくなかった。私たちの美しい日々が自然の時の流れに押されて消滅してしまったなんて思いたくなかった。何もかもが変わってゆく時の中で私だけが変化を嫌い、勢いに飲み込まれんと石のように川底にへばり付いている。不恰好でも情けなくても恥ずかしくても、それだけ彼が好きだった。ヒロが好きだった。「好きです」と言われた日から、今この瞬間まで。

「自然消滅って、好きだって気持ちもいつか自然に消滅するものなの?」

 肯定してほしいと心の底から願ったが、彼女は先ほどまでの自信ありげな表情が嘘のように何も言わなかった。そして、そっと私の手を握った。それが優しさであることも哀れみであることも知っている。ただ悲しかった。好きだという気持ちよりも先に、関係性が消滅するという事実が。

 彼女と別れ駅に向かう。週末の終電間際とあってひどく混み合っていた。誰かと寄り添いあって進む人の波をかき分け進む。ちょうど、目的のホームに到着した時だった。私が乗る予定の電車とは反対側に、逆方向へと行く電車が滑り込んでくる。それが最終の電車だった。当然慌てて乗り込む人も多い。繁華街であるこの駅で降りる人は少なく、ただでさえ長身で人目を引くその人を、私が見逃すはずもない。

 彼が。ヒロがいた。

 ヒロは電車から降りると、目の前に私がいることに驚いているようだった。約束も連絡もない偶然なので無理もない。一年ぶりに見た恋人は少し痩せていて、見慣れない髭がうっすらと顎に存在していた。

「ヒロ、」

 私が自分が乗らなければいけない最終電車が来たことにも気づかず、一心に彼の元へ向かった。……たった数歩。されど数歩。その距離を埋めるのに一年もかかっている。ヒロも私の方へ近づいてくる。その距離はあっという間に縮まった。一年間ぐずぐずしていたのがバカみたいにあっさりと、目の前に彼が現れる。昔から変わらない香水の匂いを纏い、見知らぬセンスのジャケットを羽織っている。

「驚いた。まさかこんなとこで会うなんて」
「うん、……ね。私も。……ちょうど今日、近くで友達とご飯食べてて」
「そっか」
「うん」

 うまく言葉が出てこなかった。ずっとずっと、三六五日会いたいと願ったのに、いざ目の前に彼がいると言葉が出てこない。「元気だった?」。メッセージでも聞けることをわざわざ聞いて、彼は最後のそれと同じように「元気だよ」と答えた。見るからに疲れた顔をした彼が、元気であるとはとても思えなかった。

「ヒロ」
「うん」
「……会いたかったよ」

 素直にこぼれ落ちたそれを、彼はまるで真綿で包むように肯定し、うん、と一度だけ頷いた。小一時間前まで延々と続けられていた友人の言葉がリフレインする。自然消滅。それはない。今、こうして顔を合わせてしまったのだから。でも、私と彼の関係性が消滅するというその一点は、もう揺るがないのだと悟った。彼がたった一度頷いただけなのに、それが終わりみたいに思えた。彼の背中越しに光るネオンの明かりが、ぼやけそうになって慌てて俯く。お酒が入っているから余計に感傷的だ。目の前に好きで好きで堪らない恋人がいるのに、まともに見つめ合うこともできないなんて。

 彼が、私の名前を呼んだ。彼に呼んでもらう自分の名前が一等好きだった。「好きだ」と「愛してる」と言われるよりも、ずうっと幸せな気持ちになれるから。

「ちょっと痩せたね」

 触れた。ヒロの手が、私の頬に。それは彼が顔を上げて欲しいときにやる癖だった。

「ヒロも。痩せちゃったんじゃない? 仕事忙しいんでしょう」
「……ぼちぼちだよ」

 顔を上げると彼の手はもう離れていっていた。私の赤くなった目は元通りにはなっていなかったと思う。彼は少しだけ悲しそうに目を細めて、私に「送る」と申し出た。この場所にずっといれば私と彼が別れることはないかもしれない。でも、それを彼が許さない。否、私が遅くまで外にいるということを彼は単に心配してそう言ってくれたのかもしれない。きっとそう。ヒロは私が望む以上に私を女性扱いする人だ。そういうところも好きだった。でも今となっては悲しいのだ。進むという選択肢しか与えられていないことが。……何よりも。

 今潜ったばかりの改札を抜け、駅前でタクシーを拾った。言葉はなかった。何を言い出すべきか迷って、結局言葉にならなかった。タクシーの運転手に住所を告げれば車は静かに動き出した。二人の間には一年前にはなかった距離があって埋められない。その間に置かれた彼の大きな手を見つめていると、彼がそれをこちらに伸ばして、そして私の手を握った。

「……嫌?」

 躊躇うように聞いてくるくせに、その時にはもうすでに手を握っている。いつもそうだ。人前で手を握るのを恥ずかしがる私と、気にしないヒロ。なんだかんだ私がいつも彼に負けて、二人で手を繋いで歩いた。

「嫌じゃないよ」

 嫌なわけがなかった。でももうすぐ私たちに最後が訪れるなら、私の肌に体温だけを残して去ってゆく彼を憎らしく思うだろう。私は彼と手を繋ぎ、窓の外を見るふりをして少しだけ泣いた。彼が大好きだった。今でも、夜の街を見れば楽しかったあの頃の私たちの影をそこに見つけてしまうくらいには。