夜に色を当てるとしたら、私は灰色、彼は藍色と答えた。その答えを聞いた日から、私の夜は少しずつ藍色になった。灰色だった夜と夕暮れの隙間が、紫になり徐々に青みがかり、次第に様相を変えてゆく。私は灰色と藍色と紫が混ざった夜の底で、彼の夜が灰色に変わらないことを切に願っていた。
[今から向かう。暖かいとこにいて]
チロリン。着信音が鳴り、彼からのメッセージを知らせる。彼が自分で選んだ彼の着信音は他の誰より間抜けな音をしていたが、それがいいのだと言う。私のスマホを自分のもののように弄るヒロに向かって、中学生の頃、友達ごとに着メロ変えていたよねと言えば、彼も笑いながら同意した。本当は、好きなこだけ着メロを変えていたよねと言いたかったけれど、なんとなく怒られる気がしてやめた。彼は私には勿体ないほどに優しいけれど、案外子供っぽいし、それをあまり隠さない人だ。彼の機嫌を悪戯に損ねる真似はしたくない。それに、彼がその幼い思い出にも同意を返してきたら、少しだけ嫉妬してしまいそうな気もした。
私はヒロからのメッセージを受けて、近くのファストフード店に入った。夜にペンキをかけるみたいにビカビカ光るこの看板ならば、見逃したくても目に入る。私はペンギンが丸をつくったスタンプのあと、店の名前と場所を書いて送った。既読がついてそれきり。今頃、彼は学校の門を抜けてこちらへ向かって歩いている頃だ。手持ち無沙汰を埋めるように注文したチキンナゲットを、ソースでディップする。既製品と加工物に溢れた社会に身を置くと、途端に彼の手作りドレッシングが恋しくなった。我儘だから。ヒロと生きる間は、我儘に生きていたいから。
学生という特権を捨て、私とヒロは社会に投げ出された。私は仕事を始め、彼は警察学校に入学した。ドラマや映画でしか聞いたことなかったけれど、そこは厳しいながら案外楽しいらしく、愉快な仲間と日々過ごしていると彼は言う。私たちは思い出したようにメッセージを交わし、時間の隙間を縫うように会う約束を重ねた。元よりマメな方ではなかった私が、こうして会いたい時に会えない相手と続いているという事実は、私の友人をひどく驚かせた。「アンタが?」から始まり、私が言い訳のようにヒロの話をすれば、最後は決まって「よっぽど好きなのね」で締められる。よっぽど好きだ。本当は一分一秒でも長くいたいし、会いたい時に会いたい。でもそれも我慢できるくらいには、よっぽど好きなのだろう。もう、付き合い始めて丸2年が経った。
最後のチキンナゲットを口に入れたあと、外からガラスがコンコンと叩かれて、反射するガラスの奥にヒロの姿を見た。パーカーにジーンズを履いた彼が、私に手を振る。私も同じように手を振りかえして、トレーを棚に戻し、店を出た。
「久しぶり」で始まるデート。彼に最後に会ったのは確か「もう秋だね」と言った頃だった。風の温度も街の様子もすっかりと変わり、季節は冬を迎えている。すぐそこに迫った年の瀬の気配は、街行く人を訳もなく寂しくさせる。晒された顔と足に吹き付ける冬の夜風に、彼の香水の匂いが混じる。「元気だった?」と聞けば、「うん」と言われてしまうのはいつも通りで、その顔に少し疲れが見えたとしても、それに触れることは許されない。彼が私に言っていないことが一つ二つあることは、薄らと気づいていたけれど、私に期待されているのは年上の恋人という役だけだった。いつか。そんな日も来るだろう。私たちが心も体も裸になって、何もかもを晒し合う日が。
どこに行こうかと私が言う。この辺りに美味しい店があることはリサーチ済みで。ヒロは「調べてくれたの? じゃあ任せるよ」と笑って、私がスマートフォンを取り出す。その時だった。長い腕が伸びてきて、殴られるのかと思ったのも束の間、それはぐるりとヒロの肩に回った。調子の良さそうな笑顔を浮かべた髪の長い男。夜に不釣り合いなサングラスの男の人と、ネオンよりも目に飛び込んでくるような綺麗な金髪の男の人。後ろで呆れ顔をしている体格のいい男の人は、目を丸くした私を見て、両手を合わせている。呆気にとられる私と、困った顔で苦笑いする目の前の恋人。「諸伏」と親しげに呼ぶ彼らの声色と表情で、それが彼の警察学校の友人であると気づいた。
「珍しく外出届なんか出したと思ったらやっぱりデートかよ」
「隅に置けねえな、お前も」
「おい松田、萩原。やめないか」
「そうだ、困ってんだろ」
「……ったく。誰か来てるとは思ったけど、全員で尾行したのか」
友人たちにやんややんやと揶揄われる彼に、久しぶりに年相応の笑顔を見る。それが嬉しいような寂しいような気もして押し黙ると、私が怒ったと思ったのか、金髪の彼が本格的に「おい」と彼らを制する。金髪にも負けず劣らず美しい顔をしたその彼こそが、ヒロの幼馴染であり、ゼロと呼ばれている人だと知った。降谷くん、松田くん、萩原くんに、伊達くん。全員ヒロと同い年、私の一つ下で同じ班の問題児だそうだ。私は心配そうな顔をする降谷くんに「怒ってないよ」と言った。本当に怒ってなどいなかった。でも少し寒いなと思ったタイミングで、図ったみたいにヒロが私の手を取った。
「そろそろ行くよ、寒いし」
「え、でも……」
「いいよ。こいつらにはどうせ明日も明後日も会う」
そうして私とヒロは逃げ出すみたいにその場を去った。満足に挨拶もできなかったことが少し心残りだったが、彼の良い友人であるならばまたすぐに会えるだろうと思った。振り返って、楽しそうに笑って手を振る彼らに頭を下げる。彼らもすぐに賑やかな冬の夜に消えていった。
少し行ったところで足早に進んでいた彼は足を止め、私の方へ向き直った。一言、「ごめん」。何がと聞けば、「さっきの」と言う。やっぱり彼も、私が怒ったと思ったらしい。耳も尻尾も垂れた犬みたいな顔をする私の恋人が、どうにも愛おしく、さっきまで彼らに見せていたどの表情でもないその顔に、小さくて浅はかな優越感が込み上げる。
「怒ってないよ。ちょっと寒かっただけ」
寒いと顔が少し強張るから、怒っているように見えたのはそのせいだ。
ヒロはまだ申しわけなさそうな顔で頷く。そして繋いだまんまになっていた手を彼のパーカーのポケットに入れた。諸伏景光という男はこういうことをサラリとできる男だった。いいよね、こういうの。中学生の時に憧れてたよ。そう言ったら拗ねるだろうか。拗ねる顔を見たいけれど、手を離すのは惜しいからやっぱり黙る。
「なんか入ってる?」
突っ込まれた先のポケットには先客がいて、小さなケースのような感触がある。ヒロは言われてようやくそれを思い出したみたいな顔で、「あっ」と言って、私と彼の手は再び外気の下へと戻ることになった。手が離れ、おずおずと彼はポケットの先客を取り出して見せる。黒色のケース。きっとここで取り出されるはずではなかったそれは、かわいらしく上品なデザインの腕時計だった。
「今年最後になるだろうから、クリスマスプレゼントに」
コートから腕を出す。ぴたりとハマったそれは、静かに私の腕で時を刻んだ。
「ありがとう。すごい。……嬉しい」
実のところ、私も彼にクリスマスプレゼントは買っていた。私は店で渡すよと言ったら、ヒロは恥ずかしそうな顔で頬をかく。俺もそのつもりだったと言う。きっとそうだろう。彼の彼らしい優しさが、ちょっとした狂いを産んだのだ。でも、店で渡されるよりも、名前もない街角で彼につけてもらった方がきっと思い出深い。私は忘れないだろうと思った。彼がくれた腕時計を。そして、彼のことを好きだと思いながら、別れの予感を拭いきれなかった藍色の夜のことを。