私たちの学生生活は、瞬く間に過ぎて行った。夏が来て、秋が来て、冬が来る。卒論に追われている間にも季節は流れ、私たちは時の経過と共に愛を深めた。学生という緩やかなしがらみの中で、私たちは無責任に人を愛することを覚えていった。過去も将来もない。朝起きた時も、夜寝る時も、ヒロのことを考えた。毎時間毎分毎秒、彼のことを好きなのではないかと真剣に思っていた。
バイト終わりに寒空の下で待ち合わせをしたり、知らない駅で古びたラブホテルに入ってみたり、朝日が昇るまでドライブをしたり。私たちは現実のみに生きる生き方を謳歌した。それはいつ思い返しても朝陽のように煌めき、星のように儚い思い出であった。
そして、2月末。私とヒロは同じ日に、最後のバイトを終えた。長く世話になったこともあり、店長は「くれぐれも体調には頑張ってほしい」、「また遊びにきてね」と繰り返し言ってくれた。時に理不尽に叱られることもあったが、店長は良い人だった。私は人に恵まれている。ヒロもヒロで、1年弱とはいえお世話になったキッチンのおじさんたちにバシバシと肩を叩かれ、手痛く見送られていた。その様子を、ホールから覗く。それももう最後だと思えば、感慨深くなるものだ。
「二人ともこれからも仲良くね」
確か、店長からもらった最後の言葉はそれだったように思う。私とヒロは恥ずかしさ半分、照れ臭さ半分。しかし優しく見守ってもらった上に、袋一杯の賄いまでもらってしまった手前、無下にあしらうわけにもいかず、2人同じような顔で「頑張ります」とよく意味のないことを口にした。店長も、キッチンのおじさんたちも笑っていた。
それから私たちは、ヒロの家へ一緒に帰って、もらった賄いと、コンビニで買ったお酒をグラスに移して、少し早めの卒業パーティをした。3月には、ヒロは警察学校への入校も控えて忙しくなるので、今のうちにやっておこうと話していたのだ。テーブルいっぱいにお皿を並べる。彼が作ってくれたコブサラダも、私が飾り切りしてきたうさぎの林檎もそこに並んだ。
お腹いっぱいにご飯を食べて、とりあえず働いて空っぽになった胃を満たす。ソースだけが残ったお皿をシンクに沈めている合間に一度、キスをする。彼は、もう「キスをしてもいい?」と聞くことはなかった。恥ずかしいからその方がいい。掠めるようなキス。私が振り返ったところで、もう一度押し付けるようなキス。唇の周りに、ソースがついていないかだけは気になった。
私たちは、キッチンでキスをすることが多かった。それは彼の家に限らず、私の家でも。決して広いとは言えないキッチンで、私たちは肩を並べて作業をする。多くの場合、彼はサラダを作り、私はフルーツを切っていた。そして、彼は私が一通り切り終えて、息を吐きながら包丁を置いたところを見計らい、唇を落とした。私が「もう」と少しだけ怒ることまで見越して、そうしていたらしかった。理由はわからない。でも、私もキッチンでそうして彼と触れ合うのは嫌いじゃなかった。狭くて、暑い。それがよかった。
「もっともっと」とこんな時ばかり年下ヅラで、私の腰を抱いたヒロの腕を払う。ヒロはあからさまに残念そうな顔で、払われた手を私の肩に乗せた。その顔にはもう騙されない。大概ヒロに甘い自覚はあったが、それでもシャワーも浴びさせてもらえないままベッドになだれ込むのは本意ではない。
「今日は先にシャワー浴びるからね」
「どうしても?」
「どうしても」
私が分かりやすく頬を膨らませれば、彼は観念したように両手を上げた。「なら仕方ない」。行っておいでよ。彼が私をバスルームに送り出す。彼の部屋の柔軟剤に染まった私の下着とパジャマを着るのが密かな楽しみになっていることを、この男は知らないのだ。
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欠伸を噛み殺す。体がぐったりと疲れていて、とてもベッドから起き上がる気にはなれなかった。私は四肢を折り畳んで体を丸め、彼の隣に猫のように転がっていた。枕の横に肘をついて、ヒロが私を見下ろす。男の人にしては細めの指がサラサラと私の髪を擽った。溢れた髪が顔まわりにチラチラして本音を言えばちょっと鬱陶しかったけれど、それを払う元気もなく、彼は満足気だったので良しとした。何度も言うが、私は彼に甘い。
「なんじ?」
ヒロが腕を伸ばして、ベッドサイドの携帯を開く。「もう3時」。彼の静かな部屋が、東京の深夜に響く。眠たいけれど、頭はすっきりとしている。これくらいの時間は、恋人と黙って睦み合うのに丁度良い時間である。彼は携帯を手放して、また私の髪を擽り、私は閉じそうな瞼をパチパチしながら、彼の綺麗な上半身に目を滑らせていた。
あっという間に時間は過ぎてゆく。それを痛いほど感じていた。
永遠なんて柄にもないものは信じていなくて、ハッピーエンドよりも、心を千切るような悲しい物語の方が好き。そんな私が、ヒロといる時はハッピーエンドを信じていた。たくさん時間が流れたけれど、それでも足りないほどに。誰かを大切に思ったことはなくて、これが運命の恋であると、あの頃の私は信じてやまなかったのだ。
あと1ヶ月。私たちが学生という楽園のような檻を破って、飛び立つ日が来てしまう。そのことが楽しみでもあり、恐ろしくもあった。同時に面倒臭さも感じていたと思う。私は怠惰だった。自慢の恋人と違って、楽して幸せになりたかった。だからなんだ、ということもないのだけれど。
瞬きを繰り返す間にもすっかり闇に慣れた目が、ヒロのそれとぶつかる。彼の目も、眠そうにトロンと眦が落ちていた。
「もう寝る?」
「うん、水だけのんでくるね」
まだ体は重かった。しかし、散々声を出してカラカラになった喉は、眠る前に水を飲まなければ翌日が怖い。私はシーツを這い出て、床に落ちたパジャマの上を被る。丈が長くてワンピースみたいな格好になったので、下は履かなかった。
「おれも行く」
私がベッドサイドに腰をかけて服をかぶっていると、ヒロも同じようにベッドを出て、彼は落ちていたズボンの方を履いた。上は何も着ていない。私たちは足して正解になるような間抜けな格好で、キッチン方へと向かった。
冷蔵庫を開ける。オレンジ色の光が真っ暗の部屋をわずかに照らす。眠る前に入れておいた2Lのペットボトルを出すと、上から「貸して」という声と同時に手が伸びてきて、それを奪っていく。疲れているのも眠いのも同じはずなのに、固い蓋はいとも簡単に開いていた。
シンク横のカゴから、洗ったコップを適当に取って、ヒロがそれにお茶を注ぐ。どうぞと言われて口をつけると、砂漠に降る雨のように乾いた喉が潤っていった。
「あー、いきかえった」
「死んでたの?」
小馬鹿にするような笑い声、コップを渡して触れた手。見上げれば、目を細めて笑った彼が、私を見ている。ヒロの男らしい首に浮き出た喉仏が上下した。私はそれを見るのが好きだった。彼に言ったことはない。
「誰が殺しちゃったのよ」
「俺かあ」
「そう。もうだめよ」
「そんな」
小鳥のようなキス。同じお茶の匂いがして、同時に笑った。数年経って、それが幸せな夢だったと言われたって疑わない。私たちは、またキッチンでキスをしていた。彼が、シンクに手をつく。私も、彼と指先だけが触れる位置に手を置いて体を支えた。深夜の寝息が響く都会の一角で、彼に酸素も心も奪われた。
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