私は諸伏のことを、“ヒロ”と呼ぶようになった。ヒロは私のことを変わらず「名前さん」と呼んだけれど、すぐに敬語はなくなった。彼は時々子供のように笑い、時々すごく大人びた顔で私に愛を囁き、時々何かにひどく怯えたように青い顔をした。総じて彼は素晴らしい男だったと思う。蝉が鳴き始めて夏が来る頃には、私はヒロのことが大好きになっていた。
私たちは付き合い始めた後も、変わらず夜のシフトで共に働いた。夏になるといつにも増してお酒がよく出るようになる。それに比例して、ヒロのつくるソーセージやらオードブルやらの注文も増えた。閑古鳥の日は滅多に来なくなったけれど、隙を見つけて、私はホールから彼が作っている様子を覗き見ていた。テキパキと出来上がる料理と、それをつくりあげる彼の手に、私は理由もなく恋焦がれていたのだ。
「お願いします」
ヒロの声が響くと、私は店長が反応するよりも早くカウンターへと向かった。ありがとうございますと、それを受け取る。彼は私を見て、少しだけ笑った。キッチンで働くおじさんは、私たちを見て「いいねえ」と肩を回していた。きっと私たちが良い仲であることに、気がついていたのだと思う。私は恥ずかしかったけれど、それでもどうしてもヒロの小さな笑顔が見たくて、何度も、何度もカウンターへ料理を取りに行った。
キッチンのおじさんと、もう1人。店長は、私とヒロが付き合い始めたことに気がついていたようだった。私が彼の声に反応してカウンターへ行くのを見て、いつもニコニコしていた。何が嬉しかったのか、楽しかったのか分からない。店長は、ヒロの「お願いします」が聞こえると、私の方を見て「呼ばれたよ」と言うようになった。恥ずかしくてたまらなかったけれど、少しだけ店長に感謝した。
アルバイトが終わる時間は、ホールとキッチンでバラバラだった。ラストオーダーの時間の後すぐに片付けに入れるキッチンとは違って、ホールは閉店時間までお客さんの相手をして、全員帰ったところでようやく片付けに入れる。大体30分、混雑した日は1時間以上、キッチンの方が早く上がっていた。中でもアルバイトのヒロは、上がる時間が一番早い。お客さんが引いて、私と店長が皿洗いやテーブルセットに追われている合間に、もう片付けを済ませて「お疲れ様です」と頭を下げることが常だった。そういうときは、私もあくまでただの同僚みたいな顔で「お疲れ様です」と言っていた。
ヒロが帰って30分かそのくらい経って、私がようやく仕事を終えて着替えを済ませ、外に出ると決まって、彼がいた。ガードレールに腰をかけて時々携帯をチェックしたり、夜風に吹かれて道路を走る車を目で追いかけていたり。そこに立っているだけで絵になるような人だった。私はそんな彼を見ているのが好きだった。だから、店から出ると彼を見つけて、声をかける前にぼーっと何も考えず、それを見ているだけのことがよくあった。私が彼をじっと見ていると、普段キッチンでもそうしてくれるように、彼は私を見つけてくれた。そして、軽く手をあげて「お疲れさま」と言った。その瞬間は、何にも代え難く幸福だった。
私たちはバイトが終わると、いつも一緒に帰った。この前、送ってもらった時――付き合い始めた日のことである――に、彼と家がそこそこ近いことが分かったのだ。通う大学同士もそう遠くない距離にあったので、それは偶然ではなかった。私の住む学生アパートを始め、私たちの使う沿線沿いには家賃が安くて、学生が集まる街がいくつか存在している。彼もその一つに住んでいた。ヒロは出身は長野だけれど、その後、東京の親戚にお世話になって、大学入学と同時に一人暮らしを始めたと話していた。私の住むアパートは1Kの狭くて使い勝手がよい、いかにも女子学生が住んでいそうな部屋だったけれど、彼の部屋は1DKの、学生にしては広くて綺麗なアパートで、おまけに彼の部屋にはものがとても少なかったので、余計に広く感じた。
夏が眼前に迫り、もう半袖で外を歩けるようになった季節だった。私は彼に、就職活動がようやく終わったことを報告した。社会になど出たくないと駄々をこねていた私だったけれど、とうとう内定が出たので決意を固めるしかなかった。私は学生アパートに住んでいたので、卒業と同時に引っ越す予定ではいたが、家賃が安いあの地域をあまり出たくはなかった。だから、当時住んでいた場所からも交通の弁がよく、福利厚生がしっかりしている会社を選んだ。中小企業の一般職だった。
ヒロは、そのことをとてもよく喜んでくれた。私が内々定の電話をもらった時よりもずっと嬉しそうな表情をしていた。私は社会に出たくないし、アルバイトもやめたくないし、ずっと大学生でいたかったけれど、ヒロが喜んでくれたことだけは嬉しかった。卒業して社会人になっても、ヒロと別れるわけではないし、それならまあいいかとさえ思っていた。当時の私は、兎にも角にもいい加減な人間だったと思う。
「せっかくだし、どこか行く?」
私の家が近くなった頃、彼は嬉しそうな顔のままそう言った。アルバイトで会えるから、と私の就職活動が終わるまでは遊びに行くことを控えていたのだ。私はその言葉にいいねと頷いた。その夏は、ヒロとたくさん遊びに行きたかった。彼は来年の春には警察学校に入ってしまうし、そうなると頻繁には会えなくなる。その後だって、警察官は多忙な仕事だ。思い出をたくさん作るなら今しかないと思った。
「あれはどう?」
私は、電柱に貼ってあった花火大会のポスターを指した。それは私とヒロの住んでいた区で行われる花火大会の告知だった。それは大学1年生の頃にサークルの友達を行ったことがある。でもそれきりだった。
ヒロはそれを見て、その花火大会なら家から見えるよと言ってくれた。確かに会場は、彼が住んでいる駅が最寄りだったはずだ。彼はその後に、もちろん土手まで見に行くのもいいと言ったけれど、私は彼と外を歩くより、彼の家で2人でのんびりする方を選んだ。正直に言ってしまえば、私は彼のことをあまり他の人に見せたくなかった。ちょっとした独占欲だった。人混みの中を歩くのも気が進まなかったし、テレビを見てお酒を飲んでたまに花火を見るくらいがちょうど良かった。
「ヒロがいいなら、家で見たい」
「分かった、片付けとくよ」
私たちは、約束を交わして家の前で別れた。彼は、私がアパートの外階段を上がって、部屋の中に入るまでずっと外でそれを見守ってくれた。だから私は決まって、部屋の前で鍵を開けると振り返って、彼に小さく手を振った。彼もそれに手を振りかえしてくれた。そして、そのままドアを開けて中に入る。彼と別れるときは、いつも小さな幸福と寂しさがあった。