諸伏と映画を見に行く日。好きな時間に寝て、好きな時間に起きることを幸福に感じていた私は、夜の3時に寝て、朝の8時に起きた。時計の短い針が9を指す前に起きるのは、半年ぶりのことだ。当時の私にしてみれば十分早起きと言える時間だった。それから私は顔を洗って、化粧をして、髪の毛を綺麗に巻いた。数ヶ月ぶりに引っ張り出してきたヘアアイロンは、コンセントを挿して電源をつけるだけで何かが焼けるような、嫌な匂いが発している。それでもどうしても髪を巻きたいと思った。
適当に数日前に買った食パンを焼いて、私は服に着替え、ニュースしかやっていないテレビをつけた。私が知っているキャスターじゃなくなっていて、少しだけ驚くことになる。テレビ画面の時計が11時に変わったのを見届けて、私は家を出た。駅までの道、パチンコ屋の前の鏡ばりみたいなアルミの壁に自分の姿が映る。はしゃいでいるように見えた。猛烈に恥ずかしくなったけれど、今さら家に戻る時間も、ましてや洋服を変える時間もない。私は目を逸らして、足早に駅へと向かった。
「名前さん、こっち!」
「おはよう。早かったね」
「見つけやすい方がいいかと思って早く来たんです」
待ち合わせの商業施設前に着くと、諸伏はすでに私のことを待っていて、私が駅の出口から出てくるなり、すぐに大きく手を上に伸ばして、私の名前を呼んだ。確かに見つけやすい。ただ立っているだけでも、彼はよく人の目を引く。
私が彼にありがとうと言うと、彼は小さく首を振り、それじゃあ行きましょうかと言った。私たちはまず映画館に向かった。本当はお昼の回を見ようと思っていたけれど、見たがっていた映画は賞を取って話題になったこともあり、お昼の回は並びの席が取れなかった。テレビでもインターネットでもあちこちで特集が組まれていたから、当然と言えば当然だ。まさか平日まであんな風だとは思っていなかったけれど。そこで、私たちはその次の昼の3時からの回を見ることにして、チケットを取った。後ろから2列目、J列の真ん中。
「お昼でも食べますか」
「いいね。お腹空いちゃった」
「なんか食べたいものあります?」
私たちはそのままレストランフロアを、好きな食べ物の話をしながら一周した。彼は料理をするらしく、得意料理はビーフシチューだと言った。余計にお腹がぺこぺこになる。私はすっかりその気分になって、オムライス屋に入り、ビーフシチューの入ったオムライスを頼んだ。彼はクリームソースがかかったオムライスを注文していた。
諸伏は、デートが上手だった。上手い下手を評価できるほど私に経験があったわけでもない。でも、少ない分母の中で、その時の諸伏とのデートは1番楽しく感じた。ランチの間も食事を邪魔しない程度の会話をして、年上だからと言う私に見えないようにスマートに会計を済ませた。その後、映画の時間まで適当にウィンドウショッピングをする間も、彼はテンポよく会話をつなぎ、可愛い小物や洋服を私にあてがって笑っていた。私は自分がどんどん気分が良くなるのがわかった。そして、映画の時間になり、私たちはLサイズのポップコーンを1つとMサイズの飲み物を1つずつ買った。その時のお会計は、さっきのお返しと言って私が出した。私が気を遣わないよう、彼が気を遣ってくれたのだ。どこまでも、諸伏は素晴らしい男だった。
映画は前評判通り、いい出来だったと思う。黄色いワンピースがよく似合う可愛いハリウッドの女が、大好きな男に手を引かれて夜空の下でひらひらと踊る。彼女はスタイリッシュなジャケットとパンツを纏って、石畳の上も軽やかに歩いた。少なくとも、私が愛すべき映画の類ではあった。映画を彩る音楽はどれも耳に残るものばかりで、繊細な男女の心の機微をロマンチックに表現する。美しいロサンゼルスの街並みに見惚れ、切ない恋の終わりに涙腺が僅かに緩んだところで、映画は終わっていた。
「どうでした?」
「すごくよかった、私は好きな映画」
「よかった」
5番スクリーンから出て、私は諸伏に退屈じゃなかったかと尋ねた。彼は楽しかったと笑っていた。それが嘘や気遣いであるようには見えなかったので、私は安心して微笑んだ。その時、時間はまだ夕方の5時を半分過ぎたところだったけれど、彼が「帰りましょうか」と言うので、私は諸伏のそういうところがすごく好きだなと思ったのだ。
帰り道、私たちの間に会話はあまりなかった。電車に乗る前に、彼が私を家まで送りたいと言って、ここから近くないわけでもないからいいよと言い合ったきりだった。結局、近くないならなおさら送ると押し切られてしまったのだけど。
私は揺れる電車で、仕事帰りのサラリーマンの間に諸伏の横顔を見ながら、今日のデートが終わってしまうことを少しだけ悲しんだ。否、彼の中ではもう終わってしまったのかもしれない。だからテンポよく会話をつなぐことも、微笑みかけてくれることもないのかも。そう思うと、これから彼とデートをするであろう全ての女の子が恨めしく思えて、勝手な独占欲みたいな厄介な感情まで顔を出して、自分が恥ずかしくなった。暗くなりゆく窓の外。窓にはスーツの間から私が映っている。その時の私も、はしゃいでいるように見えた。
私が住んでいる駅に到着して、私は駅前の商店街を彼に紹介しながら家まで歩いた。今度は私が会話をつなぐ番。彼はうんとかすんとか言って、穏やかに微笑んでいるだけだった。どこか緊張しているようにも見えたけれど、理由が分からなかったから、訊くことはしなかった。家は、駅から歩いて10分のところにある。2人で喋りながら歩くと、帰宅途中の学生やサラリーマンにたくさん抜かされた。それでも、15分もかからず、私の住む学生アパートが見える。私があれだよと言ったところから、どんどん歩く速度を遅めて、そしてそのままアパートの前で足を止めた。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
当時の私は、デートの最後に相手に言う言葉をそれ以外知らなかった。だからありがとうの気持ちと、楽しかったの気持ちをなるべく込めて、彼の方を向いた。諸伏は、いつもみたいに笑って「俺もです」と言った。私は都合の悪いことなんか何も考えず、それに安堵した。デートの終わりに『じゃあね』を言うのは、誘った側の役目だと信じていたので、私はその時をその場で待っていた。早く帰りたかったわけではないが、家まで着いてしまってはもうやることがない。
「名前さん」
「なあに」
「今日誘った理由。話してもいいですか」
私は一瞬ひどくドッキリとしたのを隠すように、静かな小さい声でいいよと言った。彼に何を言われるのかと、私は今朝起きた時みたいにソワソワしていた。彼が話し始めるのを息を殺して待った。その僅かな間、私の心臓は止まってしまったみたいに静かだった。
「名前さんが好きです」
今日、彼はとても饒舌に私との会話をくるくると回していた。アルバイト先でも彼はいつも人の中心にいる。その割には、高校生のような告白をするんだなと思った。諸伏は普段とあまり変わらないように見えたけれど、耳だけが少し赤くなっていた。私も、自分の全身の熱が顔に集中していくのをありありと感じた。恥ずかしい。それよりも、嬉しいが勝った。その時の私は間違いなくはしゃいでいたと思う。
「じゃあ付き合う?」
彼はただ、私を好きだという事実を述べただけだったけれど、私は彼との関係に名前をつけておきたかった。彼とたくさんデートがしたい。彼とたくさん一緒にいたいと思った。そのためには恋人になるのがいちばんだ。アルバイトの最中に彼の笑顔を見たいと願っていること、彼と歩きながら話す時間を1番楽しいと感じたこと。きっとそれは、私が諸伏を好きだということにつながっている。
私の言葉に、諸伏は照れ臭そうに頷きを返した。それを見て恥ずかしさがぶり返した私は、なぜか「ありがとう」と言っていた。先に好きだと告白してくれたのは向こうだったのに。そして諸伏もそれに「こちらこそ」と言った。私たちの関係に、名前がついた瞬間だった。