諸伏景光と出会ったのは、私が大学で5年目の春を迎えた年だった。
 うっかりと面倒くさいが重なって留年。もう1年間も大学にいられるのかと私は喜んだ。当時の私にとって大学生活は天国だった。大学は人生のモラトリアムとはよく言うが、まさにその通り。好きな時間に起きて、好きな時間に寝る。たまに大学に行き、たまに友人とランチを食べ、夜になればベッドを這い出てアルバイトへ向かう。何にも縛られず、何にも左右されない素晴らしい時間だ。今思い出しても輝かしい。

 諸伏は、当時私がアルバイトしていたレストランに、キッチンスタッフとして入ってきた。すらりと背が高く、人好きのする笑顔が目を引いて、キッチンに仕舞っておくのは勿体ないと、店長は何度も言っていた。大学4年生の彼と、大学5年生の私。最終学年同士、他のスタッフよりも自由な時間の多い私たちは週に何度もシフトに入り、カウンターで「お願いします」と「ありがとうございます」を何度も交わした。たった一言の会話でも、彼が素晴らしくいい男で、このレストランにいる誰よりも女性に人気があるだろうということは、手に取るように分かる。けれど、彼は自分の見目が秀でていることも、自分の通う大学のことも全く鼻にかけない。謙虚で人当たりがよく、兎にも角にも、悪いところなど一つもない人間であるように見えた。

 私と諸伏は、ディナータイムにシフトに入ることが多かった。夜はお酒のつまみになるようなソーセージや、オードブルの盛り合わせがよく出る。それらは彼の担当だった。彼は注文を受けて、テキパキとそれを作り、大きなお皿にメニューの写真通りに盛り付ける。注文を取って暇になってしまった時、私はその様子をホールからよく見ていた。彼が、不意に視線をあげる。じっと見ていた私の目とぶつかる。彼はそれから口元に小さな笑みを浮かべて、盛りつけた綺麗なお皿をカウンターの上に置いた。

「できました、お願いします」

 焦らせているわけではなかった。ただ、理由もなく私は諸伏を見ていたかった。もっと言えば、彼と目が合って、彼が小さく笑ってくれるのを心待ちにしていた。それは、恋の前触れだったのかもしれない。

 私たちは、暇になるとカウンターを挟んでよくおしゃべりをした。本当はよくないことかもしれないが、当時働いていた私たちのアルバイト先には1ヶ月に一度ほど、ディナータイムのお客さんが全くと言っていいほど来ない日があった。法則性はないように見えた。ただ単純に商売運の尽きてしまう日なのか、それとも他所で原因があったのか。今になっても分からない。私たちはそういう日を「閑古鳥の日」と呼んだ。お客さんが来ない。注文も入らなければ、ホールもキッチンもやることがなくなってしまう。店長は棚の奥から計簿を取り出して、事務作業を始め、私はキッチンカウンターの方へ行って、「今日は閑古鳥の日です」と言いに行った。それが、その日の私の仕事だった。

 そうすると、キッチンの人もみんなやることを失って、コックコートを脱ぐと、近くの喫煙室に行ったり、トイレに行ったり散り散りになる。そんな風に気を抜いてしまっても、お客さんは全然来ない。私と諸伏は手持ち無沙汰になって、カウンターに肘をつき、他愛もない話をした。大学の話や、昔やっていたアルバイトの話。将来の話も少ししたことがある。彼は警察官になるために試験を受けると話していた。私は当時大学生の気楽さに慣れきって、すっかり堕落してしまっていたので、社会人なんかにはなりたくなかった。でも、そんなわけもいかず適当に就職活動をしていた。決まったところへ行こう。そんな風な、22歳だった。だから、当時の私には諸伏が目を覆いたくなるほど眩しくて、堪らなかったのだ。よく覚えている。

名前さん、大学いつあるんですか」

 当時、諸伏は1つ年上の私のことを“名前さん”と呼んでいた。私たちのアルバイト先では、ホールスタッフはみんな手書きのネームプレートをつけていた。入った時に「適当に名前を書いて」と店長に言われ、私は自分の下の名前を書いた。でも、店長も、それ以降に入ってくるアルバイトの子もみんな名字を書いていた。だから、みんなが名字にさん付けで呼び合う中、私だけがみんなに下の名前で呼ばれていたのだ。

「大学なんて別に行ってないようなもんだよ」
名前さんらしいけど、また留年しますよ」
「平気。今年は出席のない授業しか取ってないから」

 大学生としての大学生活は楽しかったが、大学の授業はさして楽しいものではない。去年までは興味の出そうな分野に絞ったり、ゼミの先生に勧められた授業をそのまま取っていたが、単位を落として卒業を逃してからはどうでも良くなって、出席のない所謂『楽単』しか取っていない。もう卒業できればなんでもいいやという、やや投げやりな気持ちが当時の私には根付いていた。

「なんで? なんかあったっけ」
「……いや。今度、暇なとき映画でも行きませんか」

 諸伏は少し悩んで、私をデートに誘った。否。ただ単に映画に誘っただけだけれど、男女が2人きりで予定を合わせて出かけることを、私はデートと呼んでいるのだ。私は少し驚いた。私たちが暇な時にする話は、近況やテレビの話や好きな本の話ばかりで、一度も彼から、私をデートに誘いたいという雰囲気を感じたことがなかったから。映画の話をしたこともある。でも、彼は流石というべきか、ストーリーが綿密に作り込まれたミステリー映画をよく見ると言っていた。一方の私は、映像が綺麗で、ヒロインがフリフリの可愛いスカートを履いて、石畳を跳ねて歩くような映画を愛していた。好みが合うとはとても思えない。彼はじっくりと考えながら映画を見たい、私は映画を見ている時くらいは頭を空っぽにしたかった。

「何か見たい映画があるの?」
「あの賞取ったミュージカルとかどうですか。ああいう映画好きでしょう」
「うん、見たいとは思ってたけど。それ諸伏、好きじゃないじゃん」

 彼は笑って、いいんですと言った。何がいいのかは分からなかった。
 私は、彼がとても見たい映画があって、一緒に行く都合よく暇そうな人間がいないから私が選ばれたという可能性についても考えていた。でも、そうではない。彼の口ぶりからして、彼は映画に拘りがあるのではなく、私と行くということを重視しているらしかった。彼の考えていることは、その時はいまいち分からなかった。諸伏が、他の女の子ではなく私を選んだ理由にピンときていなかったのだ。

 アルバイト先には、まだ大学生になったばかりの初々しいみよちゃんや、色白で赤茶色の髪がよく似合うまきちゃんもいた。彼の大学にだって綺麗な子や可愛い子がたくさんいるだろう。彼は女の子に人気があることは疑いようがない。だから、諸伏が私を映画に誘った明確な理由がよく分からなかった。

「……やっぱり忙しいですか」
「ううん。そんなことない。いいよ、行こうか」

 私が快い返事をすると、諸伏は嬉しそうだった。ありがとうございますと笑っていた。その時、ちょうど喫煙所からキッチンのおじさん達が帰ってきて、嬉しそうな諸伏に「なんかいいことあったか」と揶揄ったりするくらい。彼は本当に何にもなかったみたいに「何にもないですよ」と言っていた。私はカウンターから少し離れて、そうして周りの大人に絡まれて笑う諸伏を見た。いつまでも見ていたい。そんな風に思った。